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“生きて還れる”特攻・「空」対「空」体当たり部隊があった⁉ 「未来から来た白銀の怪鳥」B-29を体当たりで撃墜せよ!

太平洋戦争後80年の記憶

 1944年11月7日、帝都方面の防空に任ずる東部軍管区の第10航空師団長吉田喜八郎(よしだきはちろう)少将は、隷下の戦闘機を装備した各飛行戦隊に対し、4機(のち8機に拡大)で編成された空対空特攻班の編成を下令。防衛総司令部総司令官東邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)大将は、同師団隷下の空対空特攻班に「震天制空隊(しんてんせいくうたい)」の名称を付与した。一方、西部軍管区の第12飛行師団の同様の部隊は「回天隊」の名称で呼ばれている。

 

「震天制空隊」の使用機は、B-29が飛行する高高度への上昇とその高度での機動性を確保するため、徹底した軽量化が図られた。たとえば三式戦「飛燕(ひえん)」を装備する飛行第244戦隊では、防弾鋼板、燃料タンク防漏ゴム、機関銃の一部などを撤去して軽量化した特攻専用機を「震天制空隊」に配備した。

 

 ちなみに帝都防空の要として知られた飛行第244戦隊をはじめとする「震天制空隊」は、優れた戦果を残している。

 

 しかしアメリカ軍が硫黄島を占領した1945年4月以降、同島を基地とするノースアメリカンP-51マスタング戦闘機がB-29の護衛に付くようになると、日本側の邀撃戦闘機隊は大損害を蒙るようになり、空対空体当たり攻撃も実施が難しい状況となっていった。にもかかわらず、日本本土防空に任ずる各戦隊では、隊全体が空対空体当たり攻撃を辞さない戦意を示したことで、「震天制空隊」は自然消滅するような形となった。

 

 太平洋戦争において、日本側はさまざまな手段によりB-29を485機撃墜(異説あり)したとされ、そのうち「震天制空隊」や「回天隊」、さらにその他の陸軍の航空部隊による空対空体当たり攻撃によって撃墜された機数は54機(異説あり)といわれる。

 

 この458機には、空戦による撃墜数のみならず、対空砲火による撃墜数も含まれているので、空対空体当たり攻撃は、P-51が登場するまでは相応に有効な戦法であったといえよう。

 

 そして、既述のごとく「必死」ではなく「決死」の戦法だったがゆえ、空対空体当たり攻撃を成功させてB-29を撃墜し、生還したパイロットもけっこういた。特に飛行第244戦隊「震天制空隊」の板垣政雄軍曹と中野松美伍長は、2度の体当たり攻撃を成功させて生還をはたしている。

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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