野心に生きた「怪物」一橋治済
蔦重をめぐる人物とキーワード㉗
■絶大な権力を手にしたまま迎えた最期
意次失脚後、治済が老中首座に推挙したのは、かつて白河藩に追いやった松平定信だった。治済にとって定信は、自分が操りやすい人物と映ったのかもしれない。しかし、定信は治済の思惑通りにはいかなかった。
定信は寛政の改革を断行し、幕政の立て直しに取り組んだ。ところが、その過程で治済を「大御所」として特別待遇することを頑として拒否したのである。将軍の実父であっても、制度上は御三卿の一当主に過ぎないという定信の姿勢は、権力欲に燃える治済には我慢ならないものだった。
この対立が「尊号(そんごう)事件」と呼ばれる政治問題に発展し、1793(寛政5)年、ついに定信は罷免。2人目の「切り捨て」である。
定信の後任として老中首座となった松平信明(のぶあきら)も、1803(享和3)年に「病気」を理由に辞職した。これも治済による圧力の結果とされており、3度目の「切り捨て」と考えられる。
治済の野心は老中の人事操作にとどまらなかった。御三卿の一つである田安家にも、その手がおよんでいる。
田安家が当主不在となった隙を突き、治済は自身の五男・斉匡(なりまさ)を田安家の当主として送り込んだ。事実上の「田安家乗っ取り」である。一橋家と田安家、二つの御三卿を支配下に置いた治済は、「一橋幕府」とも呼べる強固な体制を築き上げたのだった。
将軍の父として幕政の頂点に君臨し続けた治済は、贅沢の限りを尽くした生活を送った。目的のためには手段を選ばず、恩人であろうと盟友であろうと容赦なく切り捨てる冷徹さは人々に恐れられ、後世、彼が「江戸の怪物」「影の将軍」などと称される由縁となった。
1827(文政10)年、77歳でこの世を去る。死するときまで、その絶大な権力を手にしたままだった。