旧ソ連が生んだベストセラー第1世代ジェット戦闘機【MiG-15ファゴット】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第26回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

1953年9月21日の亡命に際してノ・クムソクが韓国の金浦まで操縦してきたMiG-15bis。塗装はアメリカ空軍のシンプルな鹵獲(ろかく)機登録シリアルが記されているのみ。
旧ソ連のMiG-15ファゴットは、アメリカのノースアメリカンF-86セイバーと双璧をなす第1世代ジェット戦闘機である。
第2次世界大戦末期、旧ソ連はドイツのメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機と戦火を交えており、自国でもジェット戦闘機の開発を進めていた。そこへ1945年5月にドイツが降伏。旧ソ連はそれに乗じて、ジェット機技術では最先進国といっても過言ではない同国の研究資料や技術者を獲得した。
そしてもたらされた技術情報に基き、後退翼を備えたジェット戦闘機の開発を開始する。実は旧ソ連はジェット戦闘機の「心臓」たるジェット・エンジンの開発にも難渋していたが、この問題については、イギリスのアトリー労働党政権時代に当時の傑作ジェット・エンジンであるロールスロイス・ニーンを入手。それを元に小改良を施した海賊版のRD-45ジェット・エンジンを造った。
一方、機体のほうは軽量で後退翼を備え、領空に侵入してくる敵の重爆撃機の迎撃に適した設計とされた。そのため固定武装は、大型機を撃墜しやすいように大口径の37mm機関砲1門と23mm機関砲2門の装備となった。
こうして生み出されたMiG-15ファゴットは、国連軍が航空優勢を確立していた朝鮮戦争に投入され、同軍のレシプロ機や直線翼ジェット機を凌駕する性能を発揮。これに危機感を覚えた国連軍は、MiG-15と同じく後退翼を備えるアメリカの最新ジェット戦闘機F-86セイバーを送り込み、両者の間で熾烈な空戦が戦われた。
かつてアメリカ空軍は、F-86対MiG-15のキル・レシオを1対10、すなわちF-86が1機撃墜されるまでにMiG-15を10機撃墜したという過大な数値を発表していたが、後年、1対4へと修正している。
世界で初めて公式に音速を超えた「伝説のパイロット」ことチャールズ・エルウッド“チャック”イェーガーは、1953年9月21日に北朝鮮から韓国に亡命したノ・クムソクが乗ってきたMiG-15bisの操縦桿を沖縄で握った。このときの彼の経験ではMiG-15は突然スピンに入ることがあり、彼はこれを「死の罠」と称した。
かような問題を抱えるにもかかわらず、MiG-15は旧共産圏を中心に広く供与され、チェコスロバキアやポーランドなどではライセンス生産も行われた。このような外国製の機体も合わせて約17000機が生産されたMiG-15シリーズは、現在もなお一部の国で練習機などとして運用が続いているという。