「不倫愛」の果てに女優人生と1億円超の財産を捨てて自死… 愛に生きた松井須磨子の悲しすぎる最期
炎上とスキャンダルの歴史
■不倫がバレても女優業は順調
劇作家・島村抱月との不倫スキャンダルが日本中の知るところになっても、女優・松井須磨子はくじけることなどありませんでした。
二人が古巣の劇団・文芸協会から独立したのは1913年(大正2年)のこと。抱月が須磨子を看板女優として据えた芸術座では、文芸協会時代から須磨子の当たり役だったイプセン原作の『人形の家』などが再上演され、「自分らしさ」を求め、夫と子どもを残して家を飛び出していく人妻・ノラを熱演する須磨子に、観客たちは平塚らいてうの主催する文芸誌「青鞜」が打ち出した「新しい女」の実像を見る思いだったはずです。
芸術座時代の松井須磨子は、激しい気性があまりに剥き出しで、劇団主催者の抱月にも傍若無人な態度を貫き、両者の怒鳴り合いを見た他の劇団員を「居たたまれない」気分にさせることもしばしばでした(宇野浩二『文学的散歩』)。
中村吉蔵の証言によると、1915年(大正4年)、鹿児島での地方公演で土地の芸者からサインを求められた抱月が、彼女の羽織の裏に和歌を書いてやっているのを目撃した須磨子が「むしゃぶりついた」――嫉妬の余り、妨害しようと飛びついたこともありました。
私生活とファンサの区別がつかない須磨子に抱月も怒り、「度しがたい女だ、もう芸術座は解散する」と、東京の劇団経営部員に夜中にもかかわらずに電話したり、大騒ぎ。しかし翌朝、二人が劇団員の前に姿を現した時には、須磨子が抱月にくっついて、「ひそひそ笑い」(以上、戸坂康二『松井須磨子 女優の愛と死』)。
喧嘩後の仲直りセックスで、雨降って地固まったのでしょうが、劇団関係者にはたまったものではありません。情熱的すぎる須磨子にとって、冷静な抱月から「本当に愛されているのか?」と、いつも不安だったようですが……。
その後も須磨子と芸術座の快進撃は続き、トルストイの『復活』を舞台化した際、須磨子が歌った劇中歌『カチューシャの唄』が大人気となり、レコード化もされた後は、多額の印税が転がり込んできました。
しかし1918年(大正7年)11月5日、島村抱月が急死してしまいます。当時世界的に大流行し、多くの人命を奪った「スペイン風邪」――現在のインフルエンザよりもさらに悪性の流行性感冒に、病気知らずの須磨子が感染してしまい、彼女を看病していた抱月も寝付くことになりました。
短期間で回復した須磨子に対し、抱月の予後は悪く、心配しながらも稽古を終わらせた須磨子が自家用車で帰宅した時に抱月はこの世の人ではなく、遺体も冷たくなっていたのです。須磨子は「死ぬときは一緒といったのに」と、抱月の胸に抱きついて号泣しました。
須磨子の苦しみを深めたのは、形だけの正妻となりながらも抱月との離婚を絶対に承諾しなかった島村いち子や、遺族たちに頭を下げて、抱月を死なせてしまったことを謝らねばならなかったことでしょうね。抱月と正式な夫婦になりたいという気持ちが須磨子にはあったのですが……。
その後も須磨子は舞台の仕事を続けていましたが、感情の乱高下はひどくなる一方で、「私を殺してくれないか」と周囲にもちかけることもしばしばでした。
そして抱月の2回目の月命日にあたる翌・1919年(大正8年)1月5日の早朝4時頃、三通の遺書を書き終えた須磨子は女優髷に結った髪を整え、大島絣(おおしまがすり)の着物と羽織をまとい、舞台に立つ時のように念入りな化粧をしてから、物置の中で首を吊りました。遺体の発見は朝8時で、すでに手の施しようもありませんでした。
松井須磨子の死は大ニュースとなり、世間に大きな衝撃を与えました。須磨子の大ファンで、交流もあった女流作家・長谷川時雨によると、10年ほどの女優業の結果、須磨子の遺産は「3万円」にもなっていました。
これは当時の大卒サラリーマンの初任給が50円として計算すると、約50年分という金額です。現代の大卒サラリーマンの初任給を23万円として計算すると、1億3800万円……これで現在の新宿区内の豪邸も(抱月と共同購入にせよ)現金買いした後の残金なのですから、凄い。
しかし財産や女優としての未来など、愛する男のいない人生と比べれば、彼女にとっては無意味だったのです。
「死処(しにどころ)を得た幸運な人である」と、長谷川は自作『松井須磨子』で語っています。生前から「伝説の女優」だった須磨子が、舞台のフィナーレのような死を遂げることで、彼女の演劇人生を完璧なものにした――そう考える人は当時、少なくなかったようですが、「度しがたい女」という抱月の言葉が脳裏をよぎってしまう筆者でした。

『復活』でカチューシャを演じた松井須磨子/『牡丹刷毛』より
国立国会図書館蔵