ひめゆり学徒隊の悲劇的な運命を描いた名作『ひめゆりの塔』【昭和の映画史】
■計4回映画化された「ひめゆり学徒隊」の悲劇
ひめゆり学徒隊の悲劇は、昭和28年(1953年)の東映作品をはじめ、昭和43年(1968年)、昭和57年(1982年)、平成7年(1995年)と計4回映画化された。
最初の東映版は敗戦から8年目、サンフランシスコ講和条約で独立を回復して間もなく制作された。社会派の巨匠・今井正が監督して大ヒットし、東映を倒産の危機から救った。この第一作は、出演者全員が戦争体験者だったことに重みがある。
昭和43年製作の『あゝ、ひめゆりの塔』は、東京オリンピック直前の勢いのあった時代に公開された。吉永小百合の他、当時やはり大人気だった和泉雅子や浜田光男らが出演している。昭和57年版は、バブル経済に向かう時代に今井監督自身がリメークした、初のカラー版である。
4作目は平成7年版で、教員役に沢口靖子、学徒隊役で国民的美少女・後藤久美子、少年時代の高橋一生などが出演した。監督は『ハチ公物語』の神山征二郎で、実際にひめゆり学徒隊を引率した仲宗根政善の著作などを参考に、内容を再検討して制作された。この時代になると、世の中は「またひめゆりの塔か」という気分になっていた。
しかし、この4作目が一番わかりやすくて良くできている。例えば教師の中でも、米軍上陸を前に生徒たちを自宅に帰そうとする者がいて、一枚岩ではなかったことがわかる。
前3作では薄かった日本軍の存在感も史実に近い。日本軍の存在なくして沖縄戦はなかった。前3作は「女学生たちが可哀想」という、どこか叙事詩的な物語になっていた。平成7年度版は自決で終わる物語ではなく、米軍の呼びかけに応じて降伏した者たちの収容所生活までを描いて、悲劇の美化を避けている。
その後の「本土復帰は我らの願い」を合言葉にした返還運動、そして、実現しなかった「本土並み」。複雑な戦後史ゆえに沖縄は今や利益が複雑に錯綜し、社会は四分五裂だ。戦争を知らない若い世代は経済第一で、7月には世界自然遺産・山原(やんばる)の森に、テーマパークJUNGLIA沖縄が開園する。
万博が終わったら、マスコミはこれ一色になるだろう。派手なアトラクションを並べなくても、山原の森をそのまま体験してもらうという、量より質をめざす方向もあったのではないかと思うが。

ひめゆりの塔/写真AC
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