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関羽の武威が中華を震わす・・・劉備軍の「樊城攻め」は、なぜ大失敗に終わったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第121回


■関羽はなぜ敗れたのか

 

 関羽はなぜ敗れたのか。それは第一に樊城攻めが長期化したことだろう。数の不利は明白で、次々と援軍を投入できた魏軍に対し、関羽は味方の加勢をまったく得られなかった。

 

 関羽に冷遇されていた麋芳(びほう)、士仁(しじん)は、孫権の誘いに応じてあっさりと降り、劉備の養子である劉封(りゅうほう)や孟達も上庸(じょうよう)の防衛で手一杯であるとして、関羽を見放す始末。孫権に隙を突かれたのはチームワークの不備が敗因であり、それが関羽の限界でもあった。

 

 このとき、劉備はどうしていたか。占領したばかりの漢中や益州の整備にかかりきりで、本軍を援軍に差し向けるほどの余裕はなかったのだろう。張飛も趙雲もそれぞれの任務に忙殺され、関羽の進軍が予想外に早く、それをサポートする体制がとれなかったものと思われる。劉備の期待に応えたいとの関羽の思いが、空回りしたというべきなのかもしれない。

 

 そうしたチームワークという点でも魏軍は優秀だった。曹仁に降伏を思いとどまらせ、援軍の到来を待つよう進言した満寵。徐晃に援軍と合流してからの攻撃を進言した趙儼(ちょうげん)など、各軍には有能な参謀がいたし、大将はその意見を用いて活かせる能力と冷静さもあった。

 

 関羽の副将には趙累(ちょうるい)や関平などがいたが、それ以外に有力な武将や参謀がどれほどいたのか、記録には出てこない。小説『三国志演義』では馬良(ばりょう)や王甫(おうほ)が関羽の参謀として登場するが、史実では彼らの動きは見られない。

 

 関羽の北伐失敗の代償は大きく、荊州はことごとく曹操・孫権の支配下におさまった。蜀は魏・呉に対抗しうる戦略上の荊州を失ってしまった。3年後、劉備は荊州奪還を果たそうと東征するも、結果は周知のとおりである(夷陵の戦い)。

樊城で悪戦苦闘の関羽/三国志演義 連環画より

■どうすれば成功できたのか

 

 関羽の北伐は、どうすれば成功できたのか。それには、やはり呉(孫権)の協力が不可欠であった。後年、孫権は蜀と再同盟し、諸葛亮の北伐に同調して合肥(がっぴ)へ侵攻している。219年の段階でも合肥攻めを続け、徐州(じょしゅう)方面進出を狙う戦略をとっていれば、劉備と連携して曹魏をさらに窮地へ陥らせることが可能だったように思う。

 

 呉が裏切らずとも、関羽が樊城を取れたかどうかはわからないが、少なくとも江陵を失うことは防げたのではないか。しかし、そもそも前提として劉備や関羽が孫権を侮る態度に終始し、関係が悪化していた以上は、やむなしであった。孫・劉の関係中和していた魯粛(ろしゅく)はすでに亡く、強硬派の呂蒙が後任となった時点で関羽の北伐失敗は決まってしまっていたのであろう。

 

 筆者も古い三国志好き。ゆえに、この「関羽最期の戦い」を小説などで読むと、一抹の寂しさも覚える。「関羽が死んでからは読んでいてツラい」という声も何度か聴いた。219年の漢中から樊城へ至るこの局面は、物語のハイライトであると同時に、それまでずっと肩入れしていた英雄らの晩年記のはじまり、夢から醒める瞬間に似ているからだろうか。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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