風俗取締で流刑になった「金沢の遊女」の悲劇 流刑先で妊娠し、川に身を投げた不遇の生涯
日本史あやしい話
■藩主の側室との不倫を疑われ、自害した伝蔵
なお、お小夜が流罪(元禄3(1690)年)となった五箇山は、その数十年後の延享3(1746)年に、加賀藩で巻き起こった加賀騒動で罪に問われた者たちも流されてきた。ここでは、その騒動についても、書き添えておきたい。
これは加賀6代藩主・前田吉徳(よしのり)の死後に巻き起こったもので、財政改革に奔走していた大槻伝蔵(おおつき・でんぞう)の躍進を快く思わなかった家老たちが伝蔵を排除した事件であった。
その際、吉徳の側室であった真如院(しんにょいん)との不義密通をも疑われ、伝蔵は配所となった五箇山で自害。真如院も絞殺されたというから無残である。
一説によると、直躬らが仕組んだ罠、つまり冤罪であったとみなされるようだ。お小夜の時代とは違って、この当時の流刑小屋の警備は厳しく、伝蔵たちも相当苦しんだに違いない。
伝蔵は真如院の身柄が拘束されたことを知って自害に及んだとみなされているが、そもそも配流先のこの悪環境によって、すでに身も心もボロボロになっていたはず。それも契機の一つとなったような気がしてならないのだ。
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