高高度を飛ぶ「B-29」への対抗手段は日本軍にあったのか─太平洋戦争での日本軍の[防空作戦]の実態─
東京大空襲と本土防空戦の真実#05

太平洋戦争でも対艦用の要塞砲として配備された和歌山県にある無人島・友ヶ島の砲台跡
■応急処置ともいえる日本軍の防空対策
最初日本の指導部は本土空襲をさけるべく次のような戦略を立てていた。
防御の欠かせない敷地は皇居、航空機基地、港湾、工場、主要な基地などだが、そのすべてを守ることなどとうてい無理であり、初めから完全な防御など不可能なことは分かっていた。しかし出来るだけのことはしなくてはならず、応急対策として拠点を設けた。
まず東京を防衛すべく北関東(所沢など)、追浜(横須賀)、調布に、続いて厚木、木更津、並びに茂原に出来るだけ強力な戦闘機部隊を配備した。続いて大阪近郊の基地として奈良(柳本飛行場)、三菱(名古屋)、大阪に続いて北九州の製鉄所を守るため築城基地を置いた。この他充填地区に対しては互いに協力して対処するため持分を担当させている。これに加えて生まれたばかりのレーダー基地を和歌山の潮岬、千葉の銚子に設置した。
また富士山についてはレーダーの設置が難しかったが、敵機が富士山を目指して来襲するであろうから、山を削ってしまおうとする意見まで現れている。
■苦労したB-29への対応それでもやらねばならない
さらには全国の艦艇から取り外した高射砲あわせて2000門を各地の防空施設に配備しようと努力した。ただこれらの高射砲の射程は8000mしかなく、高度10000mを超すB-29への攻撃には遠く及ばないものだった。
陸軍の高射砲は海軍のものと性能的に変わらず、B-29に対してはあまり効果がなかった。しかし新型の150㎜口径の高射砲がまもなく登場することは対空砲部隊にとって朗報となった。
この他、新型のロケット戦闘機秋水が実戦配備となれば大きな力となる。しかしそのどちらもまだ部隊の配備にはほど遠かった。
そのため既存の兵器を活用しなければならないが、これは簡単には済まず、現地の第一線部隊にはかなりの試練となった。
たとえば戦闘機の場合B-29の迎撃に当たってはまず搭載する兵器の重量を減らし、全体の重量を軽くすることが重要であった。戦闘機の重量が重すぎると高空性能が良好な敵機に追いつけずに取り逃がすことも多かったため、貴重な火器をわざわざ地上に置き去りにして敵機に立ち向かわざるを得ないという悲劇もあった。
さらに燃料の不足がこれに輪をかけた。アメリカはオクタン価100という理想的な燃料を使っていたが、これに対する日本軍戦闘機は85程度の燃料で戦わなくてはならなかった。燃料の問題は単に量だけではなく質の面でも苦しかった。
それに加えて情報面でも日本軍は厳しく、とくにアメリカは日本本土空襲にあたってその通り道に潜水艦を並ばせ、不時着機の海上救助に当たらせた。これは搭乗員の士気向上に大きく貢献したものの、それでも様々な原因で485機のB-29が離陸した基地に戻らなかった。この数字には事故により帰港不能になった機体も含まれるが、そのうちの半数近くは日本軍に撃墜されたものである。それでも日本に来襲したB-29は総数25万機の0・5%にすぎなかった。
■空だけでなく海も封鎖され完全にお手あげだった
アメリカ軍の爆撃は激しさを増すばかりで、ついに天皇の住居までも被爆した。また海軍の戦力はすでになく、陸軍は中国戦線に150万人、その他台湾に100万人が残されていたが、これらの陸軍兵力は地域防空に何の貢献も出きぬままに終わっている。
日本の陸海軍は本土の防衛に当たってはこれといった画期的な兵力配備が出来なかった。少なくともドイツ程度の軍事技術を有していれば、対抗の手段も考えられたであろうがそれ以前の問題であった。各種のミサイル、ロケット戦闘機などが早めに配備されていれば、どうにかできたであろうが、それを完成するだけの技術がなかったのである。それでも日本軍と日本の国民は最後の勝利を信じて戦い続けた。まず特攻機がアメリカ艦隊を撃滅し、勝利を呼び込むと考えていた。ただ特攻機とその乗員は必ず失われ、次の戦闘には使うことが出来ない。それに加えて燃料も途絶えてしまう。特攻機は自国の空軍力を削ってでも戦線をつなぐものであった。
さらに国民を苦しめる手法がアメリカ軍によってもたらされた。それは日本の軍港はもちろん市井の港を機雷によって全面的に封鎖しようとするものである。なにしろ道路、鉄道はアメリカ空軍によって破壊され、小型船による沿岸の輸送が日本国民にとって最後の手段であった。
これが敵軍によって封鎖されてしまっては、すでに地方からの物資に頼っていた沿岸の人々も完全にお手あげだった。このようにして日本の軍部が考えた対策は完璧に破られ、破滅に至ったのである。
監修・文/三野正洋