信長から信頼されながら「疑念」により討たれた津田信澄
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第67回
■信澄の才能と性格が生む「疑念」
信澄は軍事面だけでなく、内政面でも非常に優秀だったようで、信長に従って津田宗及(そうぎゅう)を訪問しています。また、先述の安土城築城に伴って行われた相撲興行では、堀秀政(ほりひでまさ)や蒲生氏郷(がもううじさと)たちと並んで奉行を努めるなど、実務面においても、非常に厚い信任を受けていたようです。
しかし、その一方で、残酷な性格であるという悪評もありました。
信澄は、天正伊賀の乱や荒木村重(あらきむらしげ)征伐など、畿内における凄惨な結末を迎えた戦で重要な役割を担っています。また、検地に反抗した和泉国の槇尾寺の僧侶800名を皆殺しにし、建造物を焼き払い、殲滅しています。
ルイスフロイスなどの宣教師からの評判は悪く「異常なほどの暴君で、誰もが死を望んでいた」「非常に勇敢だが残酷である」と称されています。ただし、信澄が天台宗に帰依していた事で、キリスト教に好意的でないとして批判されていた可能性もあります。
一方で、興福寺の僧侶から「一種の逸物」であるという高い評価を得ています。外部からは、相当な実力者になりうる存在と見られていたようです。
そのため本能寺の変の混乱の中では、敵になると非常に危険な存在であると認識されたのかもしれません。
謀反の「疑念」を持たれた信澄は、弁解する暇も与えられずに、これまで何度も行動を共にしてきた丹羽長秀と従兄弟である信孝によって討ち取られます。
■「疑念」を晴らすのは難しい
信澄は信勝の子息でありながらも、その血縁に加えて能力の高さが認められ、信長からは重臣並みの扱いを受けていました。しかし、信勝の子息であり、光秀の娘婿という血縁関係と、その能力や性格、そして置かれている状況などから生まれた「疑念」を払うことができませんでした。
現代でも組織内で一度「疑念」を抱かれると、それを払拭するのは非常に難しく、左遷や最終的には退職に追い込まれるケースも多々あります。
もし信澄が即座に剃髪して、叛意(はんい)のないことを示すなどの行動を取っていれば、親子二代に渡る謀反人の汚名を被らずにすんだかもしれません。
ちなみに、子の昌澄は藤堂高虎(とうどうたかとら)や豊臣秀頼(ひでより)の家臣を経て、大坂の陣では幕府に抗戦していますが、その後高虎の推挙により徳川家に2000石の上級旗本として召し抱えられ、63歳の生涯を終える事ができています。