日本は「万世一系」ではなかった!? 「3つの王朝が交代した」説とは?
日本の古代史「空白の4世紀」8つの謎
現代の皇統に続く王朝以外に、別の王朝が実在した可能性を提唱する説が存在する。歴代天皇の実在性や、天皇陵の地域などを根拠として、日本各地に王朝が存在した可能性を指摘する、それらの説を考察する。
■実在した最初の王朝とされる三輪王朝

三輪山
戦後、それまで万世一系とされていた王朝史論を体系的に批判したのが三王朝交替説である。
三王朝交替説は、初代の天皇とされる神武と欠史八代の天皇を架空とし、実在した初代は10代目の崇神とした。そして、仲哀(ちゅうあい)までをひとつの王朝ととらえ、水野博士はこれを古王朝とした。
この王朝名については、創始者の名から崇神王朝とか崇神の名であるミマキイリヒコイニエのように、この王朝を構成する天皇が「イリ」を名に含むことが多いのでイリ王朝とかともいう。
また、崇神の陵墓とされる行燈山(あんどんやま)古墳が奈良盆地の東南にあたる三輪山(みわやま)山麓にあるように、三輪山周辺が王朝の拠点と考えられることから三輪王朝ともよばれる。
崇神王朝は、仲哀のとき九州の熊襲(くまそ)平定に失敗して滅ぶことになる。『日本書紀』にみられる別伝承である「一書(あるふみ)」によると、仲哀天皇は戦死したとも記されている。水野博士によると、このとき戦った九州の王が応神で、仲哀と応神は別の王朝ということになる。
仲哀天皇の皇后が神功(じんぐう)であり、神功は神託をうけて、新羅(しらぎ)征伐を進言するが、仲哀はこれを聞き入れなかったために神の怒りを買い滅んだとされる。
神功はこのあとすぐに熊襲征討をやめ、朝鮮半島へ出兵する。その戦いに勝利して、九州へもどって産んだのが応神ということになる。
仲哀を倒した応神の王朝は、応神王朝と称される。この王朝名は、陵墓といわれている誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳や応神の次の仁徳の陵墓とされる大仙陵(だいせんりょう)古墳などが河内にあることから河内王朝ともいわれる。また、この王朝を構成する天皇たちの多くが名前に「ワケ」を含むことからワケ王朝などとも称す。
大仙陵は、墳丘全長が486mあり、全国最大の規模を誇っており、面積では世界最大とされ、エジプトのピラミッドを上まわっている。誉田御廟山古墳は墳丘全長が425mあり、大仙陵古墳に次ぐ2番めの規模をもっている。いずれも5世紀に築造された前方後円墳である。ともに天皇の陵墓とされてきたが、被葬者をめぐっては、学問的には問題がないわけではない。
応神の王朝は、本拠地を河内とする点で、それまでの大和を中心とする崇神の王朝とは異なった新しい王朝と考えるのであるが、提唱者の水野博士は、応神を九州の王としており、前王朝の仲哀を破ったのちも九州にとどまっていたと考えている。
応神の子である仁徳の代になって大和へ向かった東遷(とうせん)が、『日本書紀』や『古事記』にみられる神武天皇の東征伝承のモデルになっているとしている。ちなみに、水野博士は、この王朝を中王朝とか仁徳王朝とかとよんでいる。
応神を九州の王とする説は、現在、少数派といえるが、根拠地がそれまでの大和ではなく、河内である点は王朝交替の可能性を秘めているといえよう。
応神の王朝の最後をかざったのが武烈(ぶれつ)である。『日本書紀』によると、妊婦の腹を裂いて男女のいずれかを確かめるなど暴虐の限りを尽くした暴君とされる。
しかし、後継者がいなかったため、近江もしくは越前出身とされる応神5世の孫の継体を迎えて天皇にしたという。6世紀の初めのことであり、この系統が現在の天皇家につながっていく。
■これまでの天皇と異なる出自を持った継体天皇
このように、継体は大和以外から迎えられた天皇であり、河内の樟葉宮(くすのはのみや)で即位したのち、山背国(やましろのくに)の筒城宮(つつきのみや)に7年間留まり、さらに弟国宮(おとくにのみや)を経て大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)へ入った。
この間、約20年を経過しており、なかなか大和へ入れなかった天皇といえよう。また、武烈の姉の手白香皇女(たしらかのひめ)を娶り、入婿となっており、これらのことから武烈までの応神王朝とは異なる王朝と考えるのである。
三王朝交替説は、現在、王統の交替で説明がつくとかそもそも交替はなかったとする考えも強く、あまり有力な説とはいえないが、魅力的な説といってよいであろう。
監修・文/瀧音能之