「刀伊の入寇」で唯一恩賞を得た大蔵種材
紫式部と藤原道長をめぐる人々㊻
■侵略の危機と朝廷の鈍感さ
当時、大宰権帥だった藤原隆家が自ら迎撃の指揮官となり、九州の豪族らを束ねた。貴族である隆家が戦場の陣頭指揮を執るのは異例といえる。
さらなる侵攻を目論む刀伊軍に備え、種材らは警固所に配置された(『小右記』)。同年4月9日、刀伊軍の攻撃を食い止めたと記録されている。
同月10日と11日は突風が吹き荒れ、刀伊軍の進軍を阻んだ。天の恵みともいえる荒天の隙に、大宰府では兵船38隻を揃えるなど、さらなる迎撃体制を整えている。
翌12日に種材は、平致行らとともに兵船に乗って刀伊軍を猛攻。この時、刀伊軍は志摩郡沿岸を襲っていたが、大宰府軍により撃退された。種材は遅れていた兵船の整備を待つことなく、速やかに追撃すべしと主張したという。隆家は追撃の際に、対馬から先は高麗となるので深追いをしてはならない、と厳命している。
もっとも、この頃になると刀伊は徐々に撤退を始めており、大きな戦闘におよぶことはなかったようだ。刀伊は翌13日に松浦郡に侵攻しているので、劇中で藤式部らが襲われたのは、12日か13日の出来事を想定して描かれたものと考えられる。
拉致された人々は高麗で保護され、無事に帰国できた者も少なくなかったが、賊は彼らを奴隷として売りさばくつもりだったようだ。
国家として最大規模の危機といってもいい事態であったが、中央政権の動きは驚くほどに鈍かった。大宰府に「賊徒を討伐するように」と命を下したり、外敵退散の祈祷が行なわれたりはしたが、事態と真剣に向き合おうとする姿勢はあまりうかがえない。
当時、藤原道長は出家して関白の座を息子・頼通(よりみち)に移譲していたとはいえ、朝廷の実質的な権力を変わらずその手に握っていた。ところが、大宰府から報告が届くなか、道長は賀茂祭の桟敷見物に出掛けている。
しかも、朝廷は論功行賞(ろんこうこうしょう)を積極的に行なわなかった。戦功を立てた者に褒賞を与える、との指示を出す前に戦闘が終結したことが理由だという。
藤原公任(きんとう)や藤原行成(ゆきなり)などが恩賞不要と断じたのに対して、朝廷への報告とは別に、隆家から直接連絡を受けていた藤原実資(さねすけ)は、恩賞がなければ今後、国家のために奮戦する者がいなくなる、と猛反対。実資の訴えにより、ようやく出されることになったが、恩賞に預かることができたのは、種材のみだったとされる。
平為賢(たいらのためかた)にも恩賞が与えられたとする説や、隆家以外の部下には与えられたとする説もあるが、指揮官の隆家をはじめ、ほとんどの者に何も与えられなかったとする見方が有力だ。なお、種材は恩賞により壱岐守に任じられている。
突然の来襲だったとはいえ、長らくの平和が朝廷にもたらしたのは、ほとんど無関心といってもいい危機意識の著しい低さであり、こうした日和見主義が後の武士の台頭を招いたといわれている。