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権力をめぐり兄・頼通と対立した藤原教通

紫式部と藤原道長をめぐる人々㊹


11月17日(日)放送の『光る君へ』第44回「望月の夜」では、3人の娘が天皇の后となった藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)の様子が描かれた。国家の頂点に立ったその日、藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)が見守るなか、道長は後世に知られる「望月の歌」を詠むのだった。


■藤原道長の権勢が最高潮に達する

奈良県奈良市にある興福寺南円堂。藤原冬嗣の創建とされ、藤原氏の氏寺として知られる。藤原教通が関白の頃、造営着手の財源を確保しようとしたところ、後三条天皇に拒否された逸話がある(『愚管抄』)。現在の建物は江戸時代に再建されたもの。

 視力と聴力を失いつつある三条天皇(木村達成)は、左大臣・藤原道長のみならず公卿からも譲位を求められるところまで追い詰められていた。あの手この手で回避を試みるなか、三条天皇は摂政に準じる役を道長に任じて、政を委ねるという手を打ってきた。

 

 しかし、ほどなく進退の窮(きわ)まった三条天皇は、自身の皇子である敦明親王(あつあきらしんのう/阿佐辰美)を次の東宮に立てることを条件に、譲位を承諾した。

 

 こうして道長の孫が後一条天皇(ごいちじょうてんのう/橋本偉成)として即位。天皇の外戚である道長は摂政に就任し、名実ともに国家の頂点に立ったのだった。

 

 その頃、藤式部の父・藤原為時(ためとき/岸谷五朗)は、出家することを家族に告げていた。亡くなった妻のちやはや息子の藤原惟規(のぶのり)の菩提を弔いながら、余生を過ごしたいという。

 

 一方、内裏では、貴族らの間で左大臣と摂政を兼任する道長に対し、不平不満が高まっていた。側近で盟友の藤原公任(きんとう/町田啓太)の忠告により、公卿らの心情を知らされた道長は、職を辞すことを決意。摂政を息子の藤原頼通(よりみち/渡邊圭祐)に譲った。

 

 さっそく頼通は、妹の藤原威子(たけこ/いし/佐月絵美)を後一条天皇に入内させる。これで道長の娘は、藤原彰子(あきこ/しょうし/見上愛)が太皇太后、藤原妍子(きよこ/けんし/倉沢杏菜)が皇太后、威子が中宮となり、3つの后の地位を占めることとなった。

 

 さらに、三条天皇の崩御で後ろ盾を失った敦明親王は、東宮の地位を辞退。後一条天皇の弟であり道長の孫である敦良親王(あつながしんのう/立野空侑)が東宮となった。こうして、太閤となった道長の権力は全盛期を迎えた。

 

 祝賀の席で、朝廷の重臣たちが盃を回し飲みして結束を誓うなか、道長は歌を詠んだ。

 

「この世をば わが世とぞおもう 望月の かけたることも なしと思えば」

 

 返歌を求められた藤原実資(さねすけ/秋山竜次)は、優美な歌と称賛して、歌を返す代わりに、故事にならい、その場にいる公卿らとともに道長の歌を唱和した。

 

 道長の見上げた月は、かかっていた雲が晴れ、美しい輝きを放つ真円を描いていた。

次のページ■父・道長から「ヨキ子」と評されていた

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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