「刀伊の入寇」で唯一恩賞を得た大蔵種材
紫式部と藤原道長をめぐる人々㊻
■武門の誇りを胸に生きてきた気骨ある老兵
大蔵種材(おおくらのたねき)は大蔵種光(たねみつ)の子として生まれた。生没年は不詳。祖父は、承平天慶の乱(935〜941年)で藤原純友(すみとも)を追討する活躍をみせた大蔵春実(はるざね)である。
祖父の春実は、追捕使主典(ついぶしさかん)として博多津で藤原純友軍を撃破して以降、大宰府に土着し、勢力を拡大した。のちの原田氏、秋月氏、高橋氏、三池氏などの祖になったことでも知られる。当然、孫の種材も、現地の一豪族として一定の地位を確立していた。
1019(寛仁3)年に刀伊の襲撃に遭った際にも奮戦した豪族の一人だが、この時、種材はすでに齢70を超えていたという(『小右記』)。彼は功臣・春実の後裔であることを日頃から誇りに思っていたと伝わっている。敵が異国の者とはいえ、祖父と同じように戦いに身を投じ、戦功を立てるのは念願だったのかもしれない。
襲撃されたのは、同年3月28日といわれている。50余りの武装した船団が対馬(つしま)と壱岐(いき)に押し寄せ、暴虐の限りを尽くした。子ども、老人などが容赦なく殺害され、多くの島民が拉致されるという有り様だった。僧侶なども抵抗のために戦闘に加わらざるを得ない、未曾有の危機だったのである。
なお、刀伊とは、満州東部に住む女真人で編成された海賊集団のこと。当時、朝鮮の人々に「東夷」と呼ばれて恐れられており、この「東夷」が〝刀伊〟と呼ばれるようになったということらしい。