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『本能寺の変』について90年代にいくつもの新説が提唱された理由と「黒幕・関与説」

織田信長と本能寺の変 #02

 

『大日本名将鑑 織田右大臣平信長』(東京都立中央図書館蔵)

 

■生き残った「朝廷黒幕説」と「足利義昭黒幕説」

 

 1990年代以降、本能寺の変についていくつもの新説が提唱されたが、その多くは「黒幕・関与説」に関係するものだった。この段階では、江戸時代の2次史料はそのままでは信用できないという歴史学の「常識」は、かなりの程度、一般にも普及してきた。2次史料を使うには、同時代の記録や文書の記述と照らし合わせ、その信憑性や史料的価値を画定したうえで限定的に利用するのが正しく、全面的に依拠してはならないということも常識となってきた。

 

 その流れを受けながら、説として生き残ったのは「朝廷黒幕説」と「足利義昭黒幕説」だった。それ以外の黒幕説は、あまりにも根拠薄弱だったり、論理の組み立てが強引に過ぎたのだ。「朝廷黒幕説」は、著名な室町時代研究者の今谷明が、絶対君主を志向する信長が、朝廷=天皇と鋭い対立関係になったと提唱したのを受けて生まれた説で、多くの論者がこの説を唱え、互いに検証した。その過程で、在野の研究者である立花京子は「三職推任問題」について新説を発表。天正10(1782)4月末、武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代の村井貞勝の元を訪れ、信長に征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することを求めたと考えられてきたが、立花は任官を求めたのは信長の側だったと解釈。これにより、危機感を感じた朝廷が信長殺害を命じたとする「朝廷黒幕説」は大きくクローズアップされた。しかし、現在では朝廷と信長が対立関係にあったとする前提自体が批判の対象となり、共立女子大学教授の堀新が提唱する「公武結合王権論」など、両者は協調あるいは依存関係にあったとする学説が主流となり、「朝廷黒幕説」自体が退潮となってしまった。

 

 いっぽうの「足利義昭黒幕説」は、三重大学教授の藤田達生が「織田政権から豊臣政権へ」(『年報中世史研究』21)という論文を発表したことで、注目を集めるようになった。藤田自身は自説を「黒幕説」ではないとしているが、多くのフォロワーは「義昭黒幕説」として受け取り、さまざまな状況証拠によって、この説を肉付けしていった。

 

監修・文/安田清人

歴史人2024年12月号『織田信長と本能寺の変』より

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