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名犬だったのにアメリカ兵に嫌われて気性が激変… 北海道犬「秀号」の悲劇

日本人と愛犬の歴史 #26


テレビCMなどで「北海道犬」が一躍人気となったが、それまでは秋田犬などに比べれば知名度が低かった。しかし、戦後の日本犬復活の裏側では、人間と犬の出会いがその後の運命を大きく変えていたのである。今回は人間によって運命を大きく狂わされてしまった「秀号」の悲劇をご紹介する。


 

■兵士と犬の出会いがその後を変えてしまった

 

 犬は人間との出会いによって運命が変わる。敗戦後の日本では、占領軍兵士との出会いが大きな意味を持った。秋田犬は占領軍兵士と幸運な出会いをして、日本犬の復活を牽引する。

 

 紀州犬も占領軍兵士と一瞬、接点を持った。英軍将校が関心を示して、東京から和歌山まで見に来たのである。英軍将校は当時随一の紀州犬、熊市号を見て「ワンダフル!」を連発した。だが残念ながら、それ以上の展開はなかった。そのわずかな違いが運命の分岐点になる。

 

 特に基地の街では、日本犬と兵士たちが様々な出会いをしていた。それが最悪の形になってしまったのが北海道の千歳である。それで運命が狂ってしまったのが、北海道犬の秀号である。

 

 敗戦後間もなくのこと、一人の新聞記者が千歳を訪れた。子どもの頃からアイヌ犬を愛し、戦争前に北海道犬保存活動を立ち上げた伝法貫一である。千歳はかつて海軍の街であり、そのため戦争末期には、他の地域以上に犬など顧みられなかった。

 

 かつてはここに千歳系という血統があった。アイヌ酋長の小山田菊次郎の飼い犬で、伝法が発見した阿久号を祖犬とする血統である。阿久号はヒグマ猟で数々の武勇伝を残し、晩年には左前足が折れ、耳や口が裂けた満身創痍の姿だった。残っている写真が一枚あるが、その面構えは迫力満点である。

 

 戦争前のこと。日本シェパード犬協会の審査員たちが、展覧会のため北海道を訪れるにあたって、アイヌの代表的な犬を見たいと希望した。そこで日本犬保存会の斎藤弘吉は「阿久号」を紹介しておいた。その中に、新宿中村屋二代目社長の相馬安雄がいて、東京に戻ってきてから斎藤にこう言ったという。

 

 「いや驚きましたよ。飼い主の小山田というアイヌ出身の猟師の家に行ったら、どうぞと無造作に切戸を開けてくれていましたが、のっそり阿久号が出てきましてね。おとなしい犬でしたが、そのすばらしい気魄にみんなが圧されて、思わず五、六歩下がってしまいましたよ」(斎藤弘吉『愛犬ものがたり』)

 

 伝法や小山田らが手塩にかけた千歳系は、果たして戦争末期の苛烈な時代を生き伸びることができただろうか。伝法は久しく訪れていなかった千歳に、恐る恐る足を踏み入れたのである。

 

 千歳は歓楽街になっていた。「終戦と同時に連合軍の駐留地になって以来、カフェやキャバレーが軒を連ね、昼夜を分かたぬ享楽の都と化し、銘犬『阿久』もなければ『安幸』もなし」(「中型犬 北海道犬」『日本犬大観』昭和28年/1953)伝法はため息をつくばかりだった。

 

 しかし、小山田の弟である柴吉らを訪ねると、それでも阿久号の忘れ形見である雄の竜号と、安幸号の直仔である美光号が生き残っていた。その血統から、雌のピリカ号を作出することができたのである。

 

 おかげで阿久号、竜号、ピリカ号という流れで千歳系がつながり、子孫たちが北海道犬愛好家の手に渡ったのだった。愛好家と言っても当時は、戦前のアイヌ犬保存会や北海道犬協会に属していた十数人がいるだけだったが。

 

 このピリカ号から生まれたのが秀号である。昭和23(1948)、北海道犬の再建期に生まれた。離乳すると札幌の岡清に譲られ、大事に育てられた。まだワクチン体制が整っていなかった時代で、幼ないうちにジステンパーで命を落とす犬が多かったが、秀号は幸い丈夫に育った。

 

 翌年秋、札幌を中心とした数少ない愛好家が大通公園で展覧会を開いた。そこで秀号は注目を浴びた。さらに昭和26(1951)、発足したばかりの北海道犬保存会展覧会で、優一席に輝いたのである。秀号の被毛は黒褐色の光沢に包まれ、その美しさからブラックタン旋風が起こったほどだった。

 

 しかしその後、秀号には苦難が待ち受けていた。愛育していた飼い主が、仕事の都合で転居することになったのである。飼育希望者は多かったが、結局、本場である千歳に戻ることになったのである。北海道犬界の長老だった千歳市長の息子に引き取られた。順当な決定だと思われた。

 

 しかし伝法の回顧にもあった通り、当時の千歳は占領軍兵士であふれる享楽の街だった。酔っ払った兵士たちが道路狭しとばかりに、夜な夜な我が物顔で歩いていたのである。それが占領下日本の現実だった。この時に秀号が置かれた状況と受難について、伝法に影響されて北海道犬保存活動を始めた柿崎福太郎は、こう書き記している。

 

 犬は酔っ払いを嫌がるものだが、千歳は酔っ払ったアメリカ兵であふれていた。秀号は当然、吠えたてる。そして「アメリカ兵は吠えられて石を投げつける。おもちゃの花火を投げかける。犬はいよいよいきり立つ。こうしてアメリカ兵を見れば秀号は仇のような吠えたてる。こういういった状況で、秀号は進駐軍の目の敵にされたのである」( 「秀号が今日の北海道犬に与えた影響」『愛犬の友』 昭和55年/19802月号)

 

 千歳時代は秀号の、犬としての全盛期だった。しかしこの状況では、種犬として活躍することなどできない。その上、兵士たちとの摩擦で気性が変わってしまったのである。

 

 犬は、人間と良好な関係において初めて生存し得る動物である。気性が悪くなると決定的に不利になる。ついに「このままでは命も危ない」と伝法に報告がいき、函館の愛好家に預けられることになった。だが気性難もあって、養鶏場の番犬程度の扱いしか受けられずに生涯を終えた。

 

 秀号は北海道犬史に残る名犬であったにもかかわらず、交配数が驚くほど少なかった。札幌時代は飼育者の人柄もあって、多くの犬仲間が出入りして交配も行われた。しかし、戦後の復興期で犬の数そのものが少なかった時代である。いい雌犬も少なくて成果は出なかった。

 

 平穏な時代だったらもっと活躍し、中央でも注目されて北海道犬の知名度を高めたかもしれない。だがその後、北海道犬は中央の展覧会から遠ざかったこともあり、2007年にソフトバンクのCMに起用されるまで、北海道でさえ忘れられた存在となっていたのである。

 

 これもまた、敗戦後の犬がたどった一つの運命だった。犬の運命は人との出会い次第で決まる。今の時代に生きる我々が犬とどう向き合うか。それが犬の未来を決めるのではないだろうか。

出典:イラストAC

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川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

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