高貴な血筋ながら周囲に翻弄された源明子
紫式部と藤原道長をめぐる人々㉘
安和の変は、藤原北家嫡流による画策だったといわれている。政治の実権を他の氏族に奪われないようにするための藤原氏の陰謀だったらしい。首謀者として疑われる者のなかには、藤原兼家(かねいえ)の名も見られる。兼家は藤原道長の父。つまり、明子にとって道長は、父の敵の息子ということになる。
養父・盛明親王が亡くなると、明子は東三条殿に養子として迎えられた。待遇はとても丁寧だったようだ。高貴な血筋が影響したと考えられる。
東三条殿には明子を引き取った藤原詮子(せんし/あきこ)をはじめ、藤原道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長の兄弟らが出入りしていた。『栄花物語』や『大鏡』には、彼ら兄弟が明子に恋い焦がれていた様子が描かれている。半ば明子の親代わりだった詮子は、明子に言い寄る彼らをたしなめたという。しかし、道長にだけは許したらしい。
その結果、明子は道長と結婚することになった。時期は分かっていない。道長が正妻である源倫子(ともこ/りんし)と結婚したのは987(永延元)年。それより前に明子と結婚したとする説もある。いずれにせよ、天皇の血筋であり、一条天皇の生母である詮子の後ろ盾を得ていた明子が道長の正妻になれなかったのには、何か理由がありそうだ。
倫子が長女である彰子を生んだ数年後、明子は第一子である頼宗(よりむね)を出産。以降、4男2女を生んでいる。
明子の子らは、倫子の子たちに比べると、はるかに格下の扱いを受けた。
家格でみれば、倫子より明子の方が上だったが、正妻と次妻の差なのか、あるいは明子の後見となる皇族がいなかった影響なのか、明子の子らの昇進は限定的なものとなった。長男の頼宗は右大臣に上がったが、その他の子どもたちは、官位にしても、結婚相手にしてもまずまずのところにおさまっており、倫子の娘が軒並み入内し、息子たちが摂関を務めたことに比べれば格差は明らかだった。
道長の日記『御堂関白記』には、病に伏した明子を見舞う様子も記載されており、夫婦仲が悪かった印象は見受けられない。あくまで、嫡妻の子は別格という道長の意識のあらわれなのかもしれない。
明子は1019(寛仁3)年に出家しているが、これは道長の病気の回復を願ってのことだったという。道長が亡くなったのは1027(万寿4)年のことだが、明子の道長への愛情の深さが、出家に踏み出させたと見ることもできる。
明子は1049(永承4)年7月に85歳で息を引き取った。正妻・倫子の享年は90。道長の愛した2人の女性は、いずれも長命だった。
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