自決を覚悟した白虎隊隊士の命を救ったのは犬だった!? 会津戦争の悲劇の裏に隠された隊士と愛犬の感動の物語
日本人と愛犬の歴史 #23
時は幕末、会津戦争に際して会津藩は武家の少年らを集めて「白虎隊」を組織した。まだ幼い彼らが飯盛山で自刃した悲劇は長く語り継がれてきたが、生き残った隊士も多かった。過酷な戦時下で自刃を覚悟した少年と、彼を生かした忠実な愛犬「クマ」の物語をお届けする。
■激戦の地・会津に伝わる少年と犬の絆の物語
ある時代まで、白虎隊の悲劇は日本で最も有名な物語の一つあり、繰り返しドラマになっていた。しかし若い世代にはもう、感覚的に理解できなくなっているかもしれない。
2013年にはNHKが、綾瀬はるか主演で大河ドラマ『八重の桜』を放映した。震災と原発事故で苦難に追い込まれた、福島を応援するためである。そこで白虎隊の悲劇が描かれたが、あれももう11年前の話だ。白虎隊の記憶はいつまで残るだろうか。
幕末の文久2年(1862年)、14代将軍家茂からの信任厚かった会津藩主の松平容保(かたもり)は、京都守護職という大任を命ぜられる。これが悲劇の始まりだった。難しい時代で、本人はもとより重臣たちもこぞって反対した。しかし、度重なる説得に容保は覚悟を決めた。
だが、薩長を中心とする官軍は錦の御旗を立て、会津は朝廷に歯向かう賊軍の汚名を着せられることになる。そして6年後、鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は東に向かって進軍し、会津に攻め込んできた。会津戦争である。その際、志願して集まった15歳以下の武家の少年たちが白虎隊である。
その白虎隊二番隊の中に酒井峰治という少年がいた。酒井にはクマという愛犬がいて、山へ狩りに入るときはいつも連れていた。やがて、白虎隊は戸ノ口原の戦いに敗れて敗走し、一部の隊士が飯盛山で自害する。
しかし酒井は敗走中にはぐれ、飯盛山にたどり着けなかった。酒井たちは敗走中に出会った小隊長の後についていったが、見失ってしまったのである。隊士たちは道が三つに分かれているところで散り散りになり、酒井は一人になってしまった。
酒井は紙製の草鞋(わらじ)を履いていたので、歩きにくかったのである。それでも苦労しながら沢を下り、出会った農家の親子にお金を渡して道案内をしてもらった。その後、一人で歩いている時に知り合いに出会い、敵が道を塞いでいることを聞く。
酒井は鶴ヶ城が落ちたのかどうか知りたくて、旧知の農民を訪ねるが不在だった。他の者に聞いても、関わり合いを避けたいのか身を隠される始末だった。そこで自決を決意、小刀を抜いたところに、旧知の農民と会津藩士が来て止められたのである。
旧知の藩士はすぐに、酒井の月代(さかやき)を隠すために髪を落として藁で結び、農民に変装させた。そして酒井が農民と暖を取っていると、やはり農民に変装した二番隊士と出会った。二人で山に登って鶴ヶ城の様子を見たところ、まだ無事であることを確認できた。
その後、人々がきのこ狩りに来た時に使用する小屋で休憩していて、酒井は愛犬クマと出会ったのである。人の流れについてきたか、あるいは犬の本能からして食べ物を求めてきたのかもしれない。いずれにせよ、そこで偶然にもクマと思わぬ再会を果たしたのだった。
酒井はその時のことを『戊辰戦争実歴談』にこう書いている。「余の傍(かたわ)らを過ぐるあり。よく顧みれば、愛犬クマなり。声を上げてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎ見るや、疾駆して来たりて飛びつき、歓喜にたえざるの状あり。余もまた帳然として涙なきにあたわず」
酒井は、ここにたどり着くまでのクマの苦労を思い、涙が止まらなかった。我が愛犬よ、よくぞここまで来てくれたと撫でてやった。そして腰につけていた握り飯を与え、一緒にその小屋で眠ったのである。
クマと出会って酒井は生きる力を取り戻す。その後、苦労しながら何とか鶴ヶ城に戻って籠城戦に加わったのである。その間クマはずっと一緒だった。
会津が敗北した後に両親は病没し、酒井は東京で謹慎生活に入る。その後は精米業を営んだ後、明治38年(1905年)に北海道に渡り、昭和7年(1932年)に死去した。生前、白虎隊について語ることはなかった。
酒井の体験やクマとのエピソードが知られるようになったのは、平成5年(1993年)、酒井が書き残した『戊辰戦争実歴談』が仏壇から見つかってからである。この手記が白虎隊記念館に寄贈されたことがきっかけとなって、記念館の横に酒井隊士と愛犬クマの像が建てられた。
そこにはこういう説明書きがある。「戸ノ口原の生存白虎隊隊士二十二人の一人、酒井峰治が、鶴ヶ城に入城するため一人山間を退却中愛犬クマが飯盛山の裏手に出迎えた時の銅像です」
■生き残った隊士たちのその後とは
余談になるが、飯盛山の自決があまりにも有名なので、白虎隊隊士は全員自決したようなイメージがある。しかし、他所にいた白虎隊隊士には生き残ったものも多かった。
その一人に柴四郎がいる。東京での謹慎生活の後に参加した西南戦争で、熊本鎮台司令官・谷干城に見出され、岩崎家の援助でアメリカにも留学した。以後は小説を書き、大阪毎日新聞初代主筆を務めた後、衆議院議員を10期務めた。
その弟が柴五朗である。元会津藩士の子は官界での出世が難しかったため、陸軍幼年学校から士官学校に進み、明治33年(1900年)、清国駐在中に義和団の乱が起こる。柴四郎率いる日本は6カ国連合軍の一員として対応し、その軍規の良さを讃えられた。
その柴四朗が残した遺書が『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書)である。そこで描かれる鶴ヶ城落城時の様子は、涙なくして読めない。官軍が迫っていることを知った家族は、幼かった柴が生き残れるよう、山で暮らす親戚の家に栗拾いに行かせたのである。
何も知らない柴は喜んで出発し、それを母、姉、妹、祖母などが総出で見送った。そして全員自害したのである。笑顔で見送った女性たちの覚悟を見抜けなかった幼い日の自分を、柴は終生責め続けた。
そして昭和20年(1945年)9月、太平洋戦争敗戦の報に接して自決を図り、それが原因で3ヶ月後に死去している。『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は 、柴が母や妹たちの墓前で読むために記し、死後に昭和の新聞人・石光真人によって出版された。
会津戦争は、そして明治維新は、関わった人間たちの運命を大きく狂わせた。歴史の底流には、そういう多くの人々の喜びと悲しみが流れている。生死をさまよう中で愛犬と出会った若き日の出来事は、酒井にとって終生の思い出だったに違いない。

白虎隊の所属した少年たちのうち、戦死や自刃をしなかった隊士約290人が明治以降の日本で生き抜いている。
出典:写真AC