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【古代史ミステリー】なぜ平安京には「城壁がつくられなかった」のか?

平安京の謎


桓武天皇によって行われた、平安京遷都。平安京は、古代中国の都市を参考に碁盤の目状につくられた。しかし、長安などと違うのが、城壁がつくられなかったという点である。平安京はどの程度、中国のコピーだったのだろうか?


  

■何度も炎上し、皇居が内裏外

 

桓武天皇像(ColBase)

 

 

 天皇の居住空間である平安宮こと「内裏」が造営されたのは、延暦年間(782806)のこと。内裏を取り囲む官庁街に相当する「大内裏」には、周囲を大垣(築地)と呼ばれる土塀で囲った朝堂院・豊楽院をはじめとする、いわゆる二官八省の建築物が建ち並んでいた。

 

 これらは、建築史用語でいう「礎石建物」で、柱などを支える礎石を用いた、当時最先端の中国風建築だったことが発掘調査で判明している。

 

 しかし、大内裏内部の中央東寄りに位置する南北約300m、東西約200mの敷地にあった天皇の住まいにあたる「内裏」では、礎石を用いずに地面を深く掘り下げ、その穴に柱を立てた、古代日本風の「掘立柱建物」の様式が変わらずに用いられていた。

                                                      

 平安京の内裏では、長岡京の建物を解体した時に生じた造営資材が効率的に再利用されたようだ。これは平安京に限った話ではなく、以前の都でも頻繁に見られた現象ではあるが、跡地からは瓦などが数多く出土しているが、木材も使用されたと考えられている。

 

 平安時代の内裏は、頻繁に火事による被害を受けた。天徳4923日(9601016日)の全焼後も、何度も炎上を繰り返し、当初は再建が試みられたものの、11世紀以降、ついに天皇は大内裏の外に住まいを公的に移した。

 

 大貴族たちの広大な屋敷の一角に天皇が間借りするという、いわば仮住まいを「里内裏」と呼んだが、それが天皇の公邸となったのだ。かつての大内裏や内裏は荒廃し、現在の京都市街地の地下に埋もれている。

 

■長安など中国都市のような城壁をつくらなかった

 

 平安時代の内裏・大内裏は現存しないが、平安京の造営開始時、これらの建物と同時期に成立したとされる神泉苑などの殿舎の配置から、内裏・大内裏でも敷地の中央部に正殿が建てられ、正殿に左右対称となるように他の殿舎を作るという中国風の建築美学が取り入れられていたと考えてよいだろう。

 

 一方で、内裏や神泉苑は、後にいわゆる「国風文化」のひとつである建築様式「寝殿造り」の原型だとする考え方もある。ただ、こうした左右対称の配置こそを最高の美とする大陸由来の価値が、10世紀頃の「寝殿造り」様式の完成時期においても厳密に受け継がれていたのかには諸説ある。

 

 平安京が長安など中国都市とも違うのは、羅城と呼ばれる城壁が、都の周辺に張り巡らせられないままだったことだ。それゆえ、平安京にはどこからでも入ることができるのだが、羅城門などの大きな門だけは、儀礼的な観点から作られたというのは興味深い。これもある意味、日本の独自性という意味で「国風文化」といえるだろうか?

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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