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【古代史ミステリー】なぜ桓武天皇は「平安京」に遷都したのか? 政治生命を賭けた決断

平安京の謎


794年、桓武天皇によって行われた、長岡京から平安京への遷都。しかし、遷都の理由には定説がない。なぜ天皇は、整備が進んでいた長岡京からわざわざ都を移したのだろうか?


  

■渡来系豪族の勢力が強かった山城国

 

桓武天皇像

 

 

 桓武天皇が、長岡京から平安京に遷都を決意した理由には、実は定説がない。現在の京都府向日市・向日丘陵に立地する長岡京には、地勢的な制約もあり、たしかに未完成とはいえ、朝廷の正殿たる大極殿も完成していたなど整備はかなり進んでいたらしい。

 

 わずか10年でこの成果があったのは、山城国の盆地を本拠とした渡来系豪族・秦氏からの技術的・経済的支援を天皇が得られた証といえるだろう。造宮長官・藤原種継の母が秦氏の娘だったことも大きいはずだ。実は桓武天皇の実母も、百済系渡来人の一族出身の高野新笠という女性で、長岡京の位置する山城国は彼らのような渡来系豪族の勢力が強い土地だった。

 

 ところが、延暦4年(785年)、藤原種継が射殺された。秦氏の協力は平安京の造営でも得られたが、種継の死がなんらかのファクターとなり、天皇は長岡京の完成を諦めざるをえなかったのかもしれない。

 

■凶事が相次ぎ、「天皇の徳が足りない」と噂された

 

 事件の顛末としては、遷都に反対していた大伴氏の一族の一人が容疑者として逮捕されたが、天皇の同母弟・早良親王も捕らえられた。

 

 真犯人は新興勢力・藤原氏の手で政権の中枢から排除された大豪族・大伴氏と佐伯氏であろうとも、同母弟を失脚させたかった桓武天皇自身ともいう。しかし、早良親王は、無罪を主張するハンガーストライキの末、讃岐国に流刑される途中で亡くなってしまった。

 

 この頃、桓武天皇の周辺では凶事が相次いだ。天皇の実母・高野新傘が延暦8年(789年)に死亡。翌年には皇后・藤原乙牟漏や、夫人(=側室)も亡くなった。天然痘も大流行した。さらに延暦11年(792年)6月、8月の2回、長岡京周辺を大洪水が襲った。

 

 これらは早良親王の祟りと考えられたが、桓武天皇にはさらに気がかりな存在もあった。即位前の宝亀3年(773年)、天皇は義母・井上内親王(光仁天皇の皇后)や、異母兄弟・他戸親王を権力闘争の末に退け、幽閉した後、おそらく暗殺させたからだ。

 

「天皇としての徳が足りないから異変が起きる」と民衆から噂され、さらなる求心力の低下を恐れた天皇は、占いの結果、長岡京からは良方位に位置する平安京への遷都を決心したという。

 

 桓武天皇には、歴代天皇の中でも稀に見るほど強い親政の志向が見られる。しかも長岡京の造営が進んでいた段階ならば、「祟りが怖い」というだけで遷都を決断するものだろうか? 

 

 完成目前での長岡京の放棄は、それまでさんざん協力させていた渡来系の新興豪族からの信頼を大きく失う行為だったが、それは天皇が彼らから莫大な財力を奪い、権勢を削ぐことに成功したという意味でもあった。すべては独裁者たらんと望んだ、桓武天皇による「計画」だったのかもしれない。

 

 古代人の発想に現代の我々が同調することは難しいが、平安京への遷都は、天皇の政治生命を賭けた大胆な決断であったことは間違いない。

 

 

・画像:桓武天皇像(模本)/歴史人編集部にてトリミング/ColBase

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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