「光源氏」のモデルの一人とされる藤原伊周
紫式部と藤原道長をめぐる人々⑭
4月7日(日)放送の『光る君へ』第14回「星落ちてなお」では、権力者・藤原兼家(ふじわらのかねいえ/段田安則)の最期が描かれた。一方、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)と藤原道長(みちなが/柄本佑)は、自らの進む道の困難に直面し、思い悩んでいた。
■新たな摂政・藤原道隆の独裁政治が始まる

京都府京都市にある一条院跡。藤原伊周が妾とした藤原為光の三女が住まいとしていた場所で、のちに藤原詮子に引き渡されている。999(長保元)年に内裏が焼亡した際、一条天皇はこの屋敷を里内裏としている(『日本紀略』)。
日に日に衰えゆく摂政・藤原兼家は職を辞し、出家を決意した。後継者には長男の藤原道隆(みちたか/井浦新)を指名。父のために数々の汚れ仕事を請け負ってきた三男の藤原道兼(みちかね/玉置玲央)は納得がいかず、父を罵倒して、その場から立ち去った。
それからまもなく、兼家は死去。摂政を継いだ道隆は、蔵人頭(くろうどのとう)に息子の藤原伊周(これちか/三浦翔平)を任じた。露骨な身内びいきに、藤原実資(さねすけ/秋山竜次)ら公卿たちは驚きを隠せない。兼家という巨星が落ちてなお、このような政治の私物化が続くのを目の当たりにして、公卿らは不満を募らせていく。
そんななか、まひろは子どもに文字を教える試みを進めていたが、周囲から理解を得ることができず、思い悩んでいた。
一方、まひろの願う世の中にするため、宮中の改革に取り組む藤原道長は、独善に突き進む兄・道隆に阻まれ、何も成し遂げられていないことに歯噛みしていた。公卿たちの高まる反発をよそに、民を軽んじ、前例をも意に介さない道隆の独裁政治が始まろうとしていた。
■傲慢なふるまいで若くして没落した伊周
藤原伊周は974(天延2)年、中関白家の始祖・藤原道隆と、高階成忠(たかしなのなりただ)の娘である貴子(たかこ)との間に生まれた。
990(永祚2)年に父の道隆が祖父・藤原兼家の後を継いで摂政に就任して以降、急速に昇進した。992(正暦3)年に正三位権大納言、994(正暦5)年には内大臣となり、叔父の藤原道長を追い抜いている。強引に過ぎる伊周の昇進は、一条天皇や、天皇の生母である藤原詮子(せんし/あきこ)らに強い不満を抱かせた。
翌995(長徳元)年に道隆が病に倒れると、伊周は関白職を熱望。父子揃って一条天皇に嘆願するが、勅許を得ることはできなかった。
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