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村上天皇に煙たがられた「堅物」源雅信

紫式部と藤原道長をめぐる人々⑫

 当時、積極的に行なわれた摂関政治とは、貴族が自分の娘を入内させ、出産した皇子を天皇に即位させることで、天皇の外祖父として摂政あるいは関白に就任し、権力の掌握を図る政治のことを指す。

 

 雅信も自身の娘である源倫子を入内させるべく、高い教養を身につけさせていたという。

 

 ところが、入内させようとしていた花山天皇が藤原氏の陰謀により、わずか2年足らずで退位。次の天皇である一条天皇は倫子より10歳以上も年下であるという想定外の事態となった。

 

 一条天皇の母が、藤原兼家の娘である藤原詮子(あきこ/せんし)だったため、兼家は摂政に就任。円融天皇が警戒していた兼家の権力がますます強まる結果となったが、一方で、雅信は兼家に物申すことのできる、数少ない人物であり続けた。

 

 円融・花山両天皇から厚く信頼されていたこともあり、また臣籍降下したとはいえ、皇室の血筋であったことも、雅信の影響力を維持する要因となったようだ。

 

 そんななかで持ち上がったのが、兼家の息子である道長と、娘・倫子との縁談であった。どうやら藤原氏の方から持ちかけたもののようで、政敵・藤原氏との婚姻に、雅信は当初、猛反対したという。当時の道長の官位はそれほど高くなく、その後の出世が未知数だったこともあり、加えて、おそらく雅信は、倫子の入内も諦めていなかったに違いない。

 

 ところが、この結婚を強く後押ししたのが、雅信の正室である藤原穆子(あつこ/ぼくし/むつこ)だったという。穆子は、一条天皇とも、当時の皇太子(のちの三条天皇)とも、倫子の年齢が釣り合わないことを理由に挙げ、さらに、道長との間に生まれた娘をのちの天皇に入内させることの方が現実的、といった内容で雅信を説得したらしい(『栄花物語』)。こうして道長と倫子は987(永延元)年に結婚し、同時に兼家と雅信の敵対意識を緩和させたという。

 

 雅信は993(正暦4)年5月に重病を得て、辞職。同年728日に出家したが、翌日に、道長の栄華を目にすることなく亡くなった。享年74

 

「自分は親王たちの間で育ったため、世間のことを知らないので朝延の政務や儀式のときには人より先に参内し、終わったあとも最後まで残って作法を見習った」(『大鏡』)と語るほど真面目な性格だった。あまりに仕事熱心だったことから、村上天皇から「堅物」などと評価され、やや疎まれていたといわれている。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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