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秀吉や家康らの「支持」で得た鍋島直茂の権力

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第41回

■「支持」の維持に苦労する鍋島直茂

佐賀城(佐賀県佐賀市城内)に残る天守台石垣。佐賀城は元来龍造寺氏の居城であったが、江戸幕府により佐賀藩主として認められた直茂の計画により改修に着手。次の藩主である勝茂が、慶長16年(1611)に完成させた。

 鍋島直茂(なべしまなおしげ)には、義兄弟である龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を重臣として支えながら、隆信の死後、実権を龍造寺家から強引に奪った簒奪(さんだつ)者のイメージがあるかと思います。

 

 しかし、直茂は隆信の嫡子政家の要望によって、龍造寺家の軍事と外交の両面を担うようになったのが始まりであり、それが秀吉や家中から評価され、龍造寺家の家督代行者ととして実権を握るようになります。

 

 但し、その地位は実力で奪い取ったものではなく、他者からの「支持」に依存していたため、かなり不安定なものでした。

 

「支持」とは?

 

「支持」とは辞書によると「ささえもつこと。ささえてもちこたえること」または「他人の意見や行動などをよいと認めて、それを後援すること」とされています。「支持」は自身の損得勘定を抜きに行動し、他者からの信用を得ていく事で集められるようになると言われています。

 

 そのため「支持」される側は、常に他者の評価を意識して行動することが求められます。直茂が龍造寺家の実権を握り続けるためには、秀吉や家康たち権力者だけでなく、家中からの「支持」を集め続ける必要がありました。

 

鍋島家の事績

 

 鍋島家の発祥は肥前国(びぜんのくに)佐賀郡の土豪とされますが、諸説あり不明です。当初は少弐(しょうに)家に属していましたが、龍造寺家に従うと、父清房がその活躍により龍造寺家純の娘桃源院(とうげんいん)を娶(めと)るなど、重臣として扱われるようになります。

 

 隆信が家督を継ぐと、龍造寺家と血縁関係にある直茂は厚い信任を得て重用されるようになります。そして、直茂の活躍もあり、少弐家を滅ぼし、さらに大友家を撃退し、周辺の有馬家や大村家を服従させ、肥前国を中心として九州北部にその勢力を拡大させます。

 

 これまでの功により、隆信の嫡子政家の後見人となったものの、隆信との関係が悪化し、筑後国の柳河(やながわ)城主へと移されます。

 

 そして、島津家との沖田畷(おきたなわて)の戦いで隆信が戦死すると、政家の要望により直茂が中心となって龍造寺家の勢力維持に努めるようになりました。その後、九州征伐における直茂の活躍が秀吉に認められ、龍造寺家の家督代行者としての地位を与えられます。

 

 龍造寺家が肥前国約30万石を認められると、直茂は嫡子勝茂(かつしげ)と合わせて44500石を得ます。その後も、龍造寺家を率いて文禄慶長の役で活躍し、評価を高めながら龍造寺家の実権を掌握していきます。

 

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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