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関ヶ原の戦いを早期決着させた毛利輝元の「弱腰」

史記から読む徳川家康㊸


11月12日(日)放送の『どうする家康』第43回「関ヶ原の戦い」では、徳川秀忠(とくがわひでただ/森崎ウィン)率いる本軍を欠いたまま、決戦の地である関ケ原に赴く徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。当初、優位に立った石田三成(いしだみつなり/中村七之助)だったが、家康の仕掛けた調略が徐々に三成方を追い詰めていった。


天下分け目の決戦が家康の勝利で決着

 

岐阜県関ケ原町に残る関ケ原古戦場の石碑。徳川家家臣の本多忠勝は、生涯で60戦近く戦場に出てかすり傷ひとつ負わなかったとする伝説があるが、関ケ原の合戦では敗走する島津隊を追撃した際に落馬したという(『関原軍記大成』)。

 1600(慶長5)年915日、総勢15万となる、徳川家康と石田三成の軍勢が相まみえ、関ケ原にて決戦の火蓋が切って落とされた。

 

 徳川家家臣の井伊直政(いいなおまさ/板垣李光人)が先陣を切ったが、地の利を生かした三成方が当初、戦局を優位に進めた。

 

 ところが、三成方の吉川広家(きっかわひろいえ/井上賢嗣)、小早川秀秋(こばやかわひであき/嘉島陸)がなかなか動きを見せず、三成は勝負を決すことができずにいた。

 

 そこへ、家康は軍勢を前に押し出し、三成との最終決戦に持ち込んだ。戦局は家康が有利と見た秀秋は家康方に寝返り、三成方に攻撃を開始した。戦前に仕掛けた家康の調略が功を奏し、三成方の武将が続々と家康方に寝返ったため形勢は逆転。三成方はこぞって敗走した。

 

 後日、捕縛された三成に語りかける家康だったが、両者の間に埋めがたい溝があることを思い知らされたのだった。

 

小早川秀秋の逡巡は濃霧のためだった?

 

 天下分け目の決戦といわれた関ヶ原の戦いは、1600(慶長5)年915日午前8時頃に開戦した。前日からの雨で戦場には濃い霧が立ち込めていた(『板坂卜斉覚書』)が、霧が晴れないうちに戦闘が始まったという。

 

 戦端を開いたのは、徳川家家臣の井伊直政と、家康の四男・松平忠吉(まつだいらただよし)による軍勢だった(『家忠日記増補追加』『黒田家譜』)。徳川家康方の先陣は福島正則(ふくしままさのり)隊と決まっていたことから、この行為はいわゆる抜け駆けだった(『朝野旧聞裒藁』『関原軍記大成』)とする見方がある一方、両隊の攻撃目標は別々だったため、抜け駆けに当たらないとする説もある。

 

 直政らが石田三成方の宇喜多隊に攻撃するのを見て、正則隊も銃撃を開始。銃声を耳にした家康方が次々に攻撃を開始したという。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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