世間が家康を「天下殿」と見なした三成の隠居
史記から読む徳川家康㊵
この行為が露見した直後の同月19日、家康は上杉景勝、秀家、利家、輝元から詰問を受けた(『言経卿記』『吉川家譜』)。このような詰問は自分を五大老から追い出そうとするいいがかりであって、却って秀吉の遺命に背くもの、と家康は反論したようだ。
縁組を進めた政宗も、そのような遺命は知らぬ存ぜぬを押し通した。返答次第では、秀頼の名代として利家が家康を討伐するとまでいわれていた(『亜相公御夜話』)が、少なくとも翌日には沈静化したようだ(『言経卿記』)。翌月に入り、家康と四大老は和解の誓書を取り交わしている(「毛利家文書」「松井文書」)。
家康に並ぶ勢力を誇る大名として利家は、家康と他の大老、あるいは三成ら五奉行との間を取り持っていたといわれている。そうした関係を指し示すように、家康は同年3月11日に、病に倒れた利家を見舞うため、大坂にあった屋敷を訪れている(『当代記』『譜牒余録』)。
ところが、そんな利家が同年閏(うるう)3月3日に死去。利家の後を継いだのは嫡男・利長(としなが)で、その後の五大老の連署などに名が見られる(「毛利家文書」)。
この日の夜、加藤清正、福島正則、黒田長政、浅野幸長(あさのよしなが)などといった諸将が三成の討伐を画策した。彼らは朝鮮出兵での三成の仕置に不満を持っていたという。彼らを事あるごとに諌めていた利家が死去したため、さっそく動き出したようだ。
三成は事態の悪化を恐れて、大坂から伏見の屋敷に逃走(『言経卿記』)。そこで諸将は、家康に三成の切腹を訴え出ることとなった。
しかし家康は、同輩を殺すようなことは幼君・秀頼の治める天下の政務とはいえない、と諸将をなだめたらしい。家康は、居城である佐和山城(滋賀県彦根市)に三成を蟄居(ちっきょ)させることで、渋々諸将らを納得させた(『三河物語』『慶長年中卜斎記』『東照宮御実紀』)。さらに、道中で三成が襲われる可能性を考慮して、護衛に結城秀康(ゆうきひでやす)をつけて佐和山城まで三成を送り届けている(『義演准后日記』『三河物語』)。
さらに同月11日、三成は、人質として長男の重家を家康のもとに送った(「浅野家文書」)。
同月13日、家康は伏見城に入城(『言経卿記』『譜牒余録』)。伏見城は家康が京で政務を行なう拠点となった。これをもって、家康が「天下殿になった」と解釈する者もいたようだ(『多聞院日記』)。
この直後となる同月21日、家康は五大老の一人である輝元と誓紙を取り交わしている(「毛利家文書」)。内容は、秀頼を粗略に扱わないと誓い合うもの。家康は輝元を「兄弟のように」、一方の輝元は家康を「父兄のように」接する、とあり、内心がどうあれ、両者が接近する素振りを見せていたことがうかがえる。
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