秀吉の死と同時期に家康も暗殺されかけていた?
史記から読む徳川家康㊴
同年12月17日、秀吉の意向により、まだ4歳だった秀吉の二男・拾が元服。秀頼に名を改めた(『言継卿記』)。
翌1597(慶長2)年3月8日、秀吉は醍醐寺三宝院(京都府京都市)で花見を開催。家康もこれに招かれている(『義演准后日記』)。そして8月28日、室町幕府15代将軍だった足利義昭(あしかがよしあき)が病没した。
翌1598(慶長3)年5月頃から、秀吉の病はますます重くなったという(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。この頃になるとほとんど自力で歩くことができず、湯治の際は側近に背負われて湯殿に入る状態だった(『自語録』)。同年7月15日、利家は秀吉の命に応じて、自身の屋敷に諸大名を呼び寄せ、秀頼に忠誠を誓う誓書を利家と家康に提出させている(『利家夜話』「毛利家文書」)。
翌月5日には、秀吉は自筆の遺言状を認めた(「毛利家文書」)。遺言は、我が子・秀頼の行く末を案じる内容がほとんどだったという。翌6日には家康、利家、輝元、秀家が病に伏している秀吉の枕元に呼び寄せられ、死後のことを細かく指示されたらしい(『天元実記』「黄梅院文書」)。
なお、宣教師の報告書によれば、秀吉は秀頼が成人するまでの間、政権を委ねる旨、直々に家康に遺言したという(『日本史』)。この要望は、秀吉の遺言書にも見られる。
同年8月18日、秀吉が死去(『公卿補任』『義演准后日記』『三河物語』)。この訃報に前後して、石田三成の命を受けた石川頼明(いしかわよりあき)が、家康の起居していた伏見屋敷に放火しようとして徳川家の家臣に捕縛されたという。これは未遂に終わったものの、家康の暗殺を目論むものだったらしい(『武家盛衰記』)。詳細は不明だが、三成の釈明により、頼明は釈放されている。
いずれにせよ、秀吉の死の一週間後から、家康と利家が主導して、朝鮮からの撤退と和議が進められた(「黒田家文書」)。