秀吉の死と同時期に家康も暗殺されかけていた?
史記から読む徳川家康㊴
この頃、秀吉が家康の京の屋敷を訪ねたり、秀吉に随行して聚楽第(じゅらくてい/京都府京都市)に入ったりするなど、家康は秀吉と行動を共にすることが多かったが、事態が急変したのは翌1595(文禄4)年7月のこと。
関白だった秀吉の甥の秀次(ひでつぐ)が突如、高野山に追放されるという事件が発生した(『兼見卿記』「吉川家文書」「島津家文書」)。謀反を企てたとされる罪で、同15日に秀次は切腹(『言継卿記』『御湯殿上日記』)。翌月2日には、群衆が見守るなか、40人近い秀次の妻子らが三条河原で処刑されている。秀次事件については不明瞭なことも多く、高野山に追放されたのではなく、秀次自ら出奔(しゅっぽん)したのだとする研究もある(『大外記中原師生母記』)。
いずれにせよ、江戸に戻ったばかりの家康だったが、秀吉の招集を受けて急遽、上洛。諸大名に血判の誓書が求められるなか、家康は毛利輝元(もうりてるもと)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)と連署した起請文を秀吉に提出している(「毛利家文書」)。秀次事件による諸大名の動揺を抑えるのが目的だったようだ。
なお、この時に、家康、前田利家(まえだとしいえ)、輝元、隆景、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、そして上杉景勝(うえすぎかげかつ)の6人が談合し、秀吉に取り次ぐ体制が整えられた。これが後の「五大老」の原型となっている。
翌1596(文禄5)年閏7月13日には、京都を中心とした地域に大きな地震が襲った(『言経卿記』)。余震は数か月におよんだという(『義演准后日記』)。秀吉が京の拠点としていた伏見城も倒壊したため、すぐさま代替の城を築城するよう配下に命じている。
同年10月27日、相次ぐ余震を受けて、文禄から慶長への改元が行なわれた。「慶長」の元号は秀吉が選んだものといわれている。その翌日、徳川家の老臣・酒井忠次が死去。享年70だった。
さらにその数日後となる翌月4日、同じく徳川家家臣の服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)も病没している。享年55。