古代には埴輪(はにわ)製造工場があった!? 製造者の明記や検品作業まであった
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #091
何千本も必要な大量の円筒埴輪(えんとうはにわ)と、精緻で様々な種類の形象埴輪(けいしょうはにわ)は、なんのために、またどのように作られたのだろうか?
■古代に存在した埴輪の生産工場
高槻市の「史跡新池埴輪工場公園(しんいけはにわこうばこうえん)」は、定型化された大量の円筒埴輪と形象埴輪を一手に生産した優秀な古代の埴輪工場でしたが、実は埴輪工場を建設するための立地条件も重要なのです。
大量に埴輪を作るために必要な条件は、第1に良質の埴土(はにつち)が採取しやすいこと。第2に綺麗な水が豊富に使える場所であること。そして第3に燃料となる材木が無尽蔵に手に入る場所であること。第4に大量生産に欠かせない登り窯(のぼりがま)を造れる斜面があること、などでしょう。さらにつけ加えるなら、大勢の埴輪職人が暮らす住居が近所に建設できることと、彼らの生活を支えうる広大な場所が確保できることも重要です。

新池埴輪工場公園にある、登り窯の再現展示。こうした施設で埴輪を大量生産していた。
撮影:柏木宏之
そして大きな工房が半地下形式で建てられ、そこで埴土を捏ね、造形し、乾かして、登り窯で焼くのです。こう言ってしまえば簡単な流れに聞こえますが、土で作った大きな埴輪は、乾かした時点で縮みます。そのせいでひびが入っては使い物になりません。うまく乾いても高温で焼くと、さらに縮んで割れるものも出てきます。
埴輪職人たちは、そういったロスを極力なくせるプロ集団だったことが容易にわかります。膨大な数の埴輪納入期日は決められていたでしょうし、そこから逆算すると一日に生産しなければならない埴輪の数にはノルマが課せられたでしょう。
円筒埴輪をじっくり眺めてみると、様々な記号のようなものが小さく刻まれたものがあります。ひっかき傷のようなものや○×を重ねたような簡単な記号のようなものですが、これは生産者にとっては重要なしるしで、どこの工房、もしくはどの班が生産したのかを検品するときに証明するものなのです。
この生産責任を示す記号は、戦国末期や江戸時代に行われた天下普請(てんかふしん)の石垣に工事を請け負った各大名の紋所が彫り込まれているのと同じで、ノルマがあったことがわかっておもしろいですね!……話を戻します。

今城塚古代歴史館で展示されている、工房のへら記号。
撮影:柏木宏之
円筒埴輪は作られた時代を推定する編年にとても大切な史料となります。時代とともにほんの少しずつデザインや表面を綺麗に整える調整の仕方、焼成温度などが進化します。円筒埴輪にはタガのような輪っかが4~5本あるのをご存じでしょうか?あれは「突帯(とったい)」といって、タガの役目はありませんが、デザイン上良い効果を見せています。あの突帯が、古いものほどしっかりがっちり作られていて、新しいものほど単なるデザインと化しています。
そして定数に達した円筒埴輪がついに古墳にびっしりと並べられ、同時に葬送儀式に重要な形象埴輪も運ばれます。今城塚古墳の埴輪祭祀場には、大王の生前の生活や葬儀の模様を表現した形象埴輪が、まるでジオラマのように並べられていました。
刀の柄(え)に手をかけて今にも抜刀(ばっとう)するような完全武装の兵士や神事に欠かせない力士、楽団や巫女(みこ)たちが儀式そのままに再現されていたのです。また、巨大な盾やずらりと並ぶ剣、そして殯宮(もがりのみや)ではないかと考えられる建物エリアなどが整然と区画化されて立ち並んでいました。
古墳は円筒埴輪列の結界で聖域を守り、形象埴輪によって被葬者の事績を顕彰し、彼らがこの世に存在した記念碑として機能したのです。
今の雑木林のようなものではなく、そびえるように美しく葺石(ふきいし)に飾られ大量の埴輪に囲まれた大古墳は、当時の人々を圧倒して余りあったと思います。また、その存在は近隣住民にとって誇らしいランドマークでもあったでしょう。
古墳のわき役のように思われるかもしれませんが、埴輪は古墳にとって無くてはならない重要な一部なのです。

五色塚古墳の円筒埴輪列。大量生産された埴輪がずらりと並ぶ光景は、現代においても壮観だ。
撮影:柏木宏之