埴輪はなぜ作られたのか? 古墳時代に誕生した不思議なオブジェの謎
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #090
各地の整備された古墳を訪れると、展示された埴輪(はにわ)に出会うことがよくある。土で作った焼き物だが、よく見てみると結構大きなものだし、なかなか造形も良いではないか! ということで、今回は古墳時代の埴輪に焦点を当ててみよう。
■埴輪の種類とルーツ
埴輪は大きく分けて二つの種類に分類されます。一つは最も数多く作られて古墳の周りに隙間なく並べられた、土管のような「円筒埴輪(えんとうはにわ)」。もう一つは人物・動物・建物・武器などを象(かたど)った「形象埴輪(けいしょうはにわ)」です。
今から50年以上昔、「円筒埴輪はうず高く盛られた古墳の土が崩れないように隙間なく立てられたのだ」という説がありました。しかしそれが間違いであることが後年判明します。

五色塚古墳の円筒埴輪再現展示。古い時代の円筒埴輪はヒレがついていて、隙間をつくらないようにして古墳を守っていたと考えられる。
撮影:柏木宏之
もともとのルーツは、弥生後期の吉備地方に出現した「特殊器台(とくしゅきだい)」と呼ばれる、壺型土器を乗せる装飾された円筒の器台でした。まだ埴輪が発見されていない時代につくられた奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳からこの特殊器台が発見されたことなどから、箸墓が本格的前方後円墳の最初期の造営だという説が主流です。
そしてその後、特殊器台に端を発する円筒埴輪は定型化されて大量生産されるのです。大王墓級になると、周濠(しゅうごう)の外、内堤の内外、そして墳墓の各テラスに隙間なく立てられました。

今城塚古墳の内堤には、埴輪葬祭場が再現されている。今城塚古墳からは、じつに200体以上の埴輪が出土しており、いずれも高度な技術によって作られたものであることがわかる。
撮影:柏木宏之
■大量生産された埴輪
埴輪を知るのにもっとも適した古墳として、大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳があります。今回はこの古墳を例にお話を続けましょう。
国の治定(じじょう)とは違って、この今城塚古墳こそが第二十六代継体(けいたい)天皇の大王陵であることが学問上裏付けられています。しかし天皇陵とされなかったことが幸いして、6世紀初めの非常に美しい形の巨大前方後円墳の構造、そのほぼすべてが調査された貴重な古墳なのです。
今城塚古墳からは大量の埴輪が出土しています。何重にも列をなして古墳を囲む円筒埴輪は、おそらく6000本ぐらいあったと考えられています。もちろん日本最大の大仙陵(だいせんりょう)古墳クラスになると、はるかに多くなるでしょう。古墳を守るように囲む円筒埴輪は小さなものではありませんし、大量に生産しなければなりませんでした。
古墳は被葬者本人の生存中から何年もかけて築造されます。そしてついに大王が崩御(ほうぎょ)すると、盛大に殯(もがり)という儀式が行われます。現代でいうお葬式のようなものですが、本当に生命活動を停止したのかどうかをくどいほど確認したようです。殯宮(もがりのみや)という遺体安置の聖地は、現代の芳香剤のように良い匂いのする花や香木などで祀るなど、とんでもない悪臭を消すために工夫されていたのでしょう。
その殯は長く続きますが、その間に埴輪の大量生産が命じられたと私は考えています。となると大古墳に埋葬される貴人ほど殯期間が当然長くかかりますが、それも貴人のステイタスだったのでしょう。
今城塚古墳から北西方向に少し行ったところに、「史跡 新池埴輪工場公園(しせき しんいけはにわこうばこうえん)」という遺跡があります。現在は公園化されて、学習や散策にとても良い場所となっています。
ここは5世紀中ごろから6世紀中ごろまでの100年間、埴輪を生産し続けたわが国最古で最大の埴輪生産工場で、隣の茨木市にある太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん=宮内庁治定の継体天皇陵)にも、今城塚古墳にも、そのほかの古墳にも大量の埴輪を提供した大工場でした。

今城塚古墳内堤の円筒埴輪列。古墳全体で6000本あったと考えられている。
撮影:柏木宏之