空母「赤城」と組んで太平洋戦争の緒戦で奮闘した空母【加賀】
日本海軍海鷲の砦・空母たちの航跡~太平洋戦争を戦った日本空母の横顔~【第3回】
航空機の発達によって、それまで海戦の花形だった戦艦は空母の敵ではなくなった。「大艦巨砲」は「航空主兵」に取って代わられたのだ。当時の日本海軍は、アメリカやイギリスにも負けない空母保有国だった。やがて太平洋の蒼空は、彼我の空母艦上機とって修羅の場と化すことになる。第3回は、軍縮条約の影響で巡洋戦艦から空母へと改装中に関東大震災で建造不能となった「天城(あまぎ)」に代わって空母となった「加賀(かが)」である。

全通飛行甲板への改造を終えた後の「加賀」。太平洋戦争では、この艦容で戦って没している。
1922年、列強の間で軍艦の建造と保有隻数を規制するワシントン海軍軍縮条約が締結されたが、日本も批准国なので、海軍の軍艦増強計画には大きな変更が生じた。当時、建造中だった戦艦や巡洋戦艦などの保有隻数に制限がかかったせいで、建造の中止や別用途に向けねばならなかったのだ。
その結果、建造中の天城型巡洋戦艦1番艦「天城」と2番艦「赤城(あかぎ)」が、空母へと改造されることになった。ところが1923年9月1日に起きた関東大震災で横須賀海軍工廠(かいぐんこうしょう)は大きな被害を受け、建造中の「天城」は大破。修復するよりも破棄したほうがよいという結論が得られた。そこで、ある程度建造されていたが条約の締結で標的艦に転用し、その後に解体して材料に利用される予定とされた戦艦「加賀」を、急遽代替として空母化することになったのである。
当時、「加賀」の船体は標的艦にするために建造されていた神戸の川崎造船所から横須賀まで曳航(えいこう)されてきていたので、横須賀海軍工廠での空母化工事は容易だった。改装は1923年12月から始まり、時流に従って「赤城」と同じく3段の飛行甲板を持つ空母として1928年3月31日に竣工している。
しかしこれもまた「赤城」と同じく、すぐに艦上機の性能が向上して長い飛行甲板が必要となり、1934年6月から翌35年6月までの1年を費やして、1段の全通飛行甲板への大改装が行われた。
なお「加賀」は、3段飛行甲板時代と全通飛行甲板への改修後の両方の姿で、中国における実戦に参加している。
1941年12月8日の真珠湾攻撃では、南雲(なぐも)空母機動部隊の主力空母として、旗艦「赤城」とともに大活躍した。その後の同機動部隊の作戦行動でも力を発揮し、高い評価を得ている。
しかし1942年6月に戦われたミッドウェー海戦において、「加賀」は「赤城」「蒼龍(そうりゅう)」とともにアメリカ艦上急降下爆撃隊に奇襲され、爆弾4発(5発説もあり)の直撃を受けて大破。艦橋への被害で艦長以下の艦幹部がほとんど戦死。格納庫甲板内部の艦上機の燃料や兵装を中心に発生した大火災は手の打ちようがなく、総員退艦の発令後に2回の大爆発を起こして沈んだ。