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アメリカ親善訪問を目指した【超長距離機キ77】

「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第12回】


太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第12回は、一新聞社が国を挙げた記念行事のために計画し、陸軍の後押しを受けて開発。わずか2機が造られた超長距離機キ77(A-26)である。


敗戦後、アメリカに運ぶため護衛空母「ボーグ」の飛行甲板に載せられたキ77の試作1号機。

 1940年、日本は皇紀2600年を迎える。これを記念する行事として、朝日新聞社は、東京~ニューヨーク間の超長距離親善飛行を発案した。当時、太平洋横断飛行は大変な難事とされており、同社はそれを行なえる機体の開発を、東大航空研究所に依頼したのだった。

 

 ところが日本とアメリカの関係は悪化の一途を辿り、ついに1941128日、日本はアメリカに参戦した。このような国際情勢もあって、キ77(通称A-26)の開発は、当然ながら開戦に至る前に中止されていた。

 

 だが、朝日新聞社が求めた超長距離飛行性能が、陸軍の目に留まった。超長距離偵察などの任務に転用できるからだ。しかも陸軍は、開発中だった超長距離爆撃偵察機キ74に、キ77の技術をフィードバックすることも考えていた。

 

 こうして陸軍の後押しを受けたキ77は、その開発が再開された。そして設計された同機を造るのには、立川飛行機が選ばれた。

 

 試作機は2機が1942年に完成し、同年1118日、初飛行も成功した。6名が搭乗できて約18000kmもの航続距離を備えたキ77の性能に、陸軍は、日本の開戦後は直接の交流がほとんど行われていないドイツとの往復飛行に、本機を投入することにした。

 

「セ号飛行」と称された日独連絡飛行計画は、日本とは戦争状態にないソ連への配慮から、満州を飛び立ってドイツ

占領下のソ連領を目指す北回りの飛行ルートを避け、福生(ふっさ)からシンガポールを経由してベルリンへと向かう南回りの飛行ルートを予定していた。

 

 そして1943630日、朝日新聞社の長友、川崎の両パイロット、同社の塚越、永田の両フライトエンジニア、同社の川島通信士に加えて、陸軍の西大佐、香取中佐と運航を担当する中村中佐の計8名を乗せた試作2号機は福生飛行

場を離陸し、一路、中継地のシンガポールを目指した。

 

 77日、整備と給油を終えたキ77は、シンガポールを飛び立ってベルリンへと向かった。しかしその後に消息を絶ち、機体も全乗員も共に行方不明となってしまった。

 

 なお、終戦まで国内に残されていた試作1号機は、敗戦後アメリカに運ばれた。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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