本能寺で出会っていなかった信長と光秀
史記から読む徳川家康㉘
信長は当初、包囲した軍勢の起こす喧騒を下々の者の喧嘩と思っていたが、鉄砲の音を聞いて「これは謀反か、いかなる者の企てか」と尋ねた。すると、家臣の森乱丸(もりらんまる)が「明智の手の者と見受けられます」と答えたため、信長は「是非に及ばず」と武器を手に応戦した(『信長公記』)。
しかし、肘に槍傷(やりきず)を負ったため、女中衆を寺から脱出させた上で、殿中の奥に引き下がり、内側から納戸を締め、自害した(『信長公記』)。
なお、ドラマの中で信長と光秀が本能寺の境内と思われる場所で対峙する場面が描かれているが、光秀本人が本能寺襲撃に加わっていたとする確かな史料は見つかっていない。
近年の研究によれば、明智軍が本能寺を急襲した際、光秀は寺から約8km南にある鳥羽(京都府京都市)に布陣していたとする史料(『乙夜之書物』)が見つかっており、注目されている。
一方、妙覚寺(京都府京都市)で知らせを受けた信長の嫡男・信忠(のぶただ)は、本能寺に救援に向かっている。ところが、その途上で、すでに寺が焼け落ちたことを知り、妙覚寺より堅固だという二条新御所に立てこもった。明智軍はすぐさま二条新御所を攻撃。大量の弓や鉄砲を打ち込まれ、その上、火を懸けられたため、信忠は腹を切った(『信長公記』『蓮成院記録』『兼見卿記』『多聞院日記』)。
同日午前8時頃、光秀は残党狩りを指示している(『信長公記』)。
その頃、堺に滞在していた家康は、上洛すべく出発していた(『宇野主水日記』)。堺で家康を饗応(きょうおう)していた津田宗及や松井友閑らも上洛しようとしていた(『天王寺屋会記』)が、いずれも京に入った信長に対面することを目的としたものだったらしい(『石山本願寺日記』『東照宮御実紀』)。
信長は京で家康らを相手に茶道具の名物披露をする予定だったという(『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』)。名物披露の茶会は6月3日、つまり本能寺の変の翌日に開かれる予定だったとする説もある。
信長が催そうとしていた茶会のことを家康が知っていたかどうかは不明だが、いずれにしても家康は堺での遊覧を終えたことを信長に伝えようと京に使者を出している。この時の使者が茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)であった(『茶屋由緒書』)。
ところが、本能寺で勃発した事件を知った四郎次郎は、あわてて家康のもとに向かっている。同日昼頃、四郎次郎は、家康一行に先行して京に向かっていた本多忠勝(ほんだただかつ)と出会った(『神祖泉堺記事』)。その後、ともに引き返した四郎次郎と忠勝は飯盛山(大阪府大東市)付近で家康に信長の死を伝えたという(『茶屋由緒書』)。家康が信長の死を知ったのは、同日午後2時頃のことだったようだ(『神祖泉堺記事』)。
悲報を受けた家康は「信長公の御恩を蒙(こうむ)ったうえは、知恩院(ちおんいん/京都府京都市)にて追腹を切る」と悲壮な覚悟を口にしたという(『石川忠総留書』)。知恩院は家康の帰依する浄土宗の総本山で、随行していた家臣らもこれに一時は同意していたようだ。
もっともこの時、織田家家臣の長谷川秀一(はせがわひでかず)が一行に加わっていたため、信長への忠節を示すため芝居を打ったという可能性もある。
ここで自害ではなく弔い合戦を進言したのが、忠勝だったともいわれる(『徳川実紀』『武功雑記』)。「敵を一人も手にかけないのは無念」と、秀一もこれに同調したことで、一行は京ではなく、三河を目指すことになったという。
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