家康が見抜けなかった松倉重政の「虚栄心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第27回
■大和五條と肥前島原の違い
重政が善政を敷いたと言われる大和五條1万石は、大和国と紀伊国を結ぶ交通の要衝の地です。この地は吉野の入口でもあり、南北朝時代に吉野を追われた後村上(ごむらかみ)天皇が南朝を置いた場所でもあります。大和国の外れではありますが、畿内においては由緒ある地域でもありました。重政は居城とした二見城(ふたみじょう)の城下町の発展のため、諸役を免じて100件の商家を集め現在の五條新町通りの礎を築きました。重政が転封となった後も、五條は南大和の中心地として栄えます。
一方、1616年に加増転封となった肥前(びぜん)島原4万石は、九州の中心地博多からも遠く外れ、ほぼ海に囲まれた半島です。前領主の有馬家の方針もあり領民の多くがキリシタンでした。畿内と比べると文化的にも地理的にも地理的にも大きな違いがある環境です。また、雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)からの火山灰により土地が痩せており、農業生産力が低く豊かな地域ではなかったようです。石高も実質的には4万石も無かったと言われています。
しかし、重政はこの実情を無視するかのように独自の検地で10万石と偽ります。
■「虚栄心」が招く惨劇
重政は総石垣造り、5重5階の天守、櫓(やぐら)49棟と、領国の実情と見合わない島原城を建築しました。加えて、10万石に見合う幕府への御手伝普請(おてつだいふしん)を行う必要もあり、領民に対して過酷な搾取を行います。
また、将軍徳川家光(とくがわいえみつ)にキリシタン弾圧の緩さについて指摘を受けると、非人道的な方法で棄教を迫るようになります。これらの異常なまでの幕府への追従は、「虚栄心」からくる自己顕示欲の表れに見えます。
そして「虚栄心」が生み出した最大の施策が、スペインが支配するルソン島の攻略です。重政は日本のキリシタン根絶のために、アジアにおけるキリシタンの本拠地を攻略する計画を立案します。幕府から先遣隊派遣の確約を取り、長崎奉行の竹中重義の力を借りて、家臣を現地調査に送り出す事に成功しています。
この遠征計画実現のために、さらに領民への収奪が行われたようです。この計画は重政が急死した事で頓挫しますが、二代藩主の勝家はその意志を引き継いで再検討しています。この作戦は税収を補うため、海外での領地獲得を狙ったものと言われています。もし、これが実現していたらスペインとの戦争に発展していたかもしれません。
しかし、島原の領民への過酷な搾取は引き継がれ、最終的には島原の乱が起こり、大きな被害を生みます。
■個人の「虚栄心」が組織全体を揺るがす
重政の「虚栄心」から来る行動により、島原の領民は非常に苦しめられました。そして、父の施策をさらに過酷にした勝家によって、領民の不満は爆発し、1637年に江戸時代最大規模の一揆である島原の乱が起こります。
現代でも、経営陣や上司からの評価を気にするあまり、部下に過剰な業務を押し付けるケースはよく見られます。また、個人の「虚栄心」のための無謀な計画に周囲を巻き込み、関係者に迷惑や被害を及ぼすパターンもよくあります。
もし、家康が重政の人間性を見抜き、大和や畿内周辺に留めておけば、島原の乱は起こらなかったのかもしれません。
しかし、「虚栄心」からくる行動は、上層部からは見えづらい事も多いのが現実です。重政の場合は、そのことを知る良い事例だと思います。
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