×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

家康自ら仲裁を試みた信康と五徳の「夫婦仲」

史記から読む徳川家康㉔

 同年113日、両軍は横須賀城(静岡県掛川市)付近で対峙したが、大きな合戦に発展することはなかった。徳川軍の退却とともに、武田勝頼も軍勢を高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)に引き揚げさせている(『家忠日記』『三河後風土記』)。

 

 同月6日、家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)は遠江国小笠山砦(静岡県掛川市)付近で鷹狩を行なった(『家忠日記』)。小笠山砦は高天神城攻略のために築かれた「高天神六砦(たかてんじんろくとりで)」と呼ばれる防御施設のひとつで、その他、能ケ坂(のがさか)、火ケ峰(ひがみね)、獅子ケ鼻(ししがはな)、中村、三井山(みいやま)の砦が、高天神城への補給を断つ兵糧攻めの構えを見せていた。そして12日には、勝頼の軍勢が高天神城から引く。同月25日には勝頼は甲斐(現在の山梨県)へと退いている(『家忠日記』)。

 

 同年1223日、勝頼の妹・菊姫が越後(現在の新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と婚約。翌1579(天正7)年324日、前年3月の上杉謙信(けんしん)死去に伴って勃発していた上杉家の跡目争い「御館(おたて)の乱」が終結(『歴代古案』)。後継候補であった北条氏政の弟である景虎(かげとら)が自刃(じじん)したことで、上杉家は勝利した景勝のもとでまとまることになった。これで、武田・北条の関係が完全に決裂する。

 

 同年47日には、家康にとって三男となる長松(または長丸。のちの秀忠)が浜松城で誕生している(『徳川幕府家譜』『東照宮御実紀』)。

 

 同月23日、駿河国江尻(静岡県静岡市)まで勝頼が出撃してきたため、迎撃のため徳川軍も出陣。勝頼は同25日には高天神城に布陣したが、馬伏塚(まむしづか/静岡県袋井市)を拠点にした徳川軍が武田軍を撃退している(『家忠日記』)。この戦いでは本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)に加え、井伊直政(いいなおまさ)も先鋒として戦闘に加わっている(『井伊年譜』)。

 

 65日、家康は岡崎城を訪ね、嫡男の松平信康と面会。目的は、信康と何者かとの「中直(なかなお)し」だという(『家忠日記』)。1577(天正5)年には「岡崎三郎殿(信康)と御前(五徳)と御中(仲)不和に成り給ふ」(『松平記』)とあるから、どうやら信康と、その妻である五徳との仲直りを図ったものらしい。しかし、成果は得られなかったようだ。

 

 家康が浜松城に帰ったのは2日後の同月7日(『家忠日記』)だが、病(霍乱/かくらん)を患ったために早々の帰城になったという。具体的な病状は分からないが、現代でいう熱中症のようなものだったらしい。時期的に、信康の説得に失敗した心労がたたり、体調不良につながったとも考えられる。

 

 なお、信長は1576(天正4)年1210日、翌1577(天正5)年1210日、翌1578(天正6)年118日と、三河国吉良(愛知県吉良町)で鷹狩を行なっている(『信長公記』)。信長の三河訪問は自身の娘である五徳(ごとく)と信康の不仲説と無関係ではないと考えられており、二人の関係改善を試みていたか、あるいはこれらの時期に五徳から岡崎城の内情を知らされていたのではないか、とする研究もある。

KEYWORDS:

過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。