家康自ら仲裁を試みた信康と五徳の「夫婦仲」
史記から読む徳川家康㉔
6月25日(日)放送の『どうする家康』第24回「築山へ集え!」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の正室・瀬名(せな/有村架純)が内密に進めていた計略が明らかになった。瀬名の抱く〝夢〟に多くの関係者が賛同したが、計画の破綻は早々に訪れたのだった。
瀬名の遠大な計画が明らかに

静岡県掛川市にある高天神城の本丸跡。かつて徳川と武田との間で激しい争奪戦が行なわれ、1571年の武田信玄の攻撃は退けたものの、1574年の武田勝頼の城攻めには抗し切れずに開城。徳川家康は1581年にようやく奪還を果たしている。
瀬名の居住する築山(つきやま)での不穏な動きが次々に報告されるなか、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)にも探りを入れられたことで、徳川家康はついに築山に乗り込むことを決意した。
家康らを待ち構えていた瀬名は、自身の〝夢〟を語った。武田の重臣・穴山信君(あなやまのぶただ/田辺誠一)をも巻き込んだ瀬名の計略は、合戦により奪い合うのではなく、足りないものを与え合うことで大きな経済圏を築き上げることだった。成功すれば、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)、甲斐(かい)、信濃(しなの)、相模(さがみ)、越後(えちご)、奥州(おうしゅう)といった諸国のつながる、巨大な国が東国に作り上げられることになる。それほどの国が出来上がれば、さすがの信長も容易に手出しはできない。
合戦続きで疲弊していた徳川家と武田家は、瀬名に賛同。両家の合意のもと、瀬名の計画が実行に移されることになった。信長の目をくらますため、両軍は協力して合戦のふりを続けた。
当初は順調に進んでいた計画だったが、同意していたはずの武田勝頼(たけだかつより/眞栄田郷敦)が突如として翻意(ほんい)。築山の謀(はかりごと)を世に公表せよ、と信君に指示した。動揺する信君を前に勝頼は、織田と徳川を仲違いさせて両家を滅ぼすと宣言。勝頼は、父・武田信玄(たけだしんげん)を超え、天下を目指すという自身の〝夢〟を口にしたのだった。
家康も信長も子どもたちの関係改善に動いていた?
1578(天正6)年10月28日、東海地方は50年来といわれる地震に見舞われた(『家忠日記』)。翌29日には奈良でも大きな地震があったと記録されている(『多聞院日記』)。
そのような混乱のなか、武田軍の襲来を受けた徳川家康は、同月29日に遠江国見附砦(静岡県磐田市)に出陣を命令(『家忠日記』)。
- 1
- 2