徳川家康の「汚点」 築山殿と信康の死は、家康本人が望んでいた!?
日本史あやしい話7
■築山殿の「嫁いびり」を告げ口
この夫との確執に加えて、彼女にとって我慢ならなかったのが、義母・築山殿の「嫁いびり」であった。今川家といえば、清和源氏の流れを汲む名家。その当主・義元の姪としての自負が傲慢さを育んだものか、俄かに勢力を増してきた織田家など「何するものぞ」と蔑み、その現れとして嫁いびりを始めたのだ。
さらには、築山殿にとって信長は、自身の父・関口義広(親永)を殺した仇でもある。その娘も当然、憎いとの思いがあった。そのこともあって、何かにつけ彼女を罵ったのである。なかなか男子を生まない五徳に対して「役立たずめ」と暴言を吐いた挙句、五徳を見限って信康に妾を持つよう仕向ける始末。
そこで五徳は、姑の不義密通(甲斐にいた唐人医師・減敬との密通が噂されていた)までもを父・信長に告げ口した。それが、「12ヶ条の弾劾文」と呼ばれるもので、信康ばかりか築山殿への不平不満を12条も書き連ねて、父の元に送り届けたのだ。
もちろん、信長が激怒したことはいうまでもない。娘を愚弄することは、詰まる所、織田家を軽んじることにつながるからである。ただし、信長がそれ以上に怒ったのは、徳川家が武田家と結んで「織田家に対抗しよう」との姿勢を見せたことであった。
信康が本当にそれを目論んだかどうかはともあれ、信長は信康の武将としての能力に恐れを抱いていたようである。娘・五徳の弾劾文は、本人にとっては単なる不平不満のはけ口だけだったかもしれないが、信長にとっては、好機到来。信康を排除する絶好の機会と捉えた。
それゆえに、信長は家康に対して、有無を言わさず信康の殺害を強要。その際、母・築山殿が、我が子を殺されて騒ぎ出すことは火を見るよりも明らか。厄介な事態を招かないうちに、まずは築山殿の殺害を先行し、その上で、信康に自害を命じるとの手はずが整えられたのである。
■築山殿と信康殺害を望んでいたのは、信長ではなく家康自身だった?!
問題は、信長に命じられたからといって、なぜ1ヶ月にも満たないうちに二人の殺害を家康は強行してしまったのか?という点である。いかに戦国の世とはいえ、我が妻、我が子を自らの手で殺すことなど非情。殺害に至らぬよう、何らかの手立てを施すこともできたはずである。それにもかかわらず、言われるがまま早々と実行に移してしまったのはなぜか?
考えられることは二つ。一つは、理不尽な信長を恐れて、何も細工ができぬまま、断腸の思いながらも実行に移してしまったというもの。一般的には、そう見られることが多いようである。しかし、実はもう一つの見方の方が、史実ではなかったかと思えてならないのだ。
それが、信長が二人の殺害を命じたのではなく、「家康自身の判断で二人を死に追いやった」というものである。もともと家康が、築山殿ばかりか信康の排除を目論んでいたという考え方だ。
■「築山殿の祟り」により岡崎で疫病が流行
この頃の家康は、正室である築山殿のほか、奥女中だった於万の方(小督局)を側室として結城秀康を生ませていた。さらにお愛の方(西郷局)に秀忠を生ませるなど、次々と側室を迎え入れては後継者を誕生させていた。
そもそも、夫を蔑むような態度に終始する築山殿に未練などなく、その息子・信康さえ、重臣の諫言にも耳を貸さず、父である家康をも軽んじるところがあった。家康はこれを忌々しく思っていたのだ。二人がいなくなったとしても、家康には愛しい側室や、跡を継がせるべき後継者に不自由していなかった。そのことも考慮しておくべきだろう。
ともあれ築山殿は、息子の助命のため(護送のためとの説も)に岡崎城から浜松城へと向かう途上、家康臣下の野中重政に槍で刺されて絶命(諸説あり)。その子・信康も、二俣城幽閉の後、父・家康に命じられて切腹している。母子共々、家康に愛されることなく、無残にも死に追いやられたのである。もちろん、築山殿が怨霊となって祟りを為すと恐れられたことはいうまでもない。
彼女の死後、岡崎で疫病がまん延して多数の死者を出したこと、さらには岡崎城に不審火が出たことまで築山殿の怨霊の仕業と見られたのだ。もちろん、その真偽のほどは定かではない。それでも、家康が妻子二人を殺害したことは事実。これを軽んじるべきではないだろう。
※画像:PIXTA
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