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徳川家康の「汚点」 築山殿と信康の死は、家康本人が望んでいた!?

日本史あやしい話7


大河ドラマでは描き方がずいぶん異なるようであるが、信康(家康の嫡男)と仲が悪かった五徳(信長の娘)が、義母・築山殿(大河では瀬名)からいじめを受けていたというのはよく知られるところである。それを父・信長に言いつけたことが発端となって、築山殿と信康の母子が死に追いやられたとも。通説では信長が二人の殺害を家康に強要したことになっているが、実は家康自身が、元から二人の排除を目論んでいたと見られることもあるのだ。それはいったい、どういうことなのだろうか?


 

 

■妻への不満を「侍女の虐待」で晴らしていた信康

 

築山殿の首塚(八柱神社)

 

 徳川家康といえば、人質時代の不遇をバネとして蘇り、我慢に我慢を重ねて、ついに全国制覇を成し遂げた…というのが、一般的な見方といえるだろう。もちろん、それは間違いではない。しかし、この苦難の末の成功物語をもって、彼を英雄として祭り上げて良いものかどうか?

 

「妻・築山殿および長男・信康を死に追いやった」という、家康の汚点を忘れてはならないだろう。この記事では、その真相を探ることにしたい。ともあれ、まずは築山殿とのなりそめから見ていくことにしよう。

 

 家康が後に築山殿と呼ばれるようになる瀬名姫(今川義元の姪)を娶ったのは、彼が今川義元方に人質として囚われていた時のことである。もちろん、政略結婚であったことはいうまでもない。今川家にとって、徳川家を味方に引き止めておくためにも、必要なことであった。

 

それは家康15歳(16歳とも)、瀬名姫16歳(17歳あるいは26歳とも)の頃で、2年後に生まれたのが、長男・信康であった。この信康は、それから10年後の永禄10(1567)年に、信長の長女・五徳と結婚。ともに9歳という若さで、これまた政略結婚であった。

 

 その後、家康は駿府から浜松へ移ったものの、信康と五徳の若夫婦は、五徳にとって姑にあたる築山殿とともに岡崎城で暮らすことに。徳川家の嫡男・信康と織田家の娘・五徳、そして今川一門の娘・築山殿の三者の揃い踏みである。問題が起きないわけがなかった。

 

 

 信康と五徳の夫婦仲が良ければ、さして問題となることもなかったろうが、そこは悲しいかな、政略結婚がもたらす弊害である。夫婦仲は決して良くなかった。五徳が織田家の権勢を笠に着ており、徳川家の夫・信康を見る目が、常に上から目線だったからである。

 

 無論、信康も見下されれば不愉快である。自然、態度に現れ、妻を冷たくあしらった。それでも、義父が信長とあっては五徳にあたることもできず、侍女などを虐待することでうさを晴らしていたようである。

 

次のページ■築山殿の「嫁いびり」を告げ口

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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