ドイツとの連絡を託され、幾多の困難を克服した深海の使者「遣独潜水艦」【後編】
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
見事に欧州との往復航海に成功したものの、シンガポール港に敷設(ふせつ)されていた機雷に触れ、貴重な機密兵器類とともに沈没した伊号第30潜水艦(以下・伊30)。続いて遣独任務に指名されたのは、伊号第8潜水艦(艦長内野信二中佐、以下・伊8)であった。

ブレスト軍港に到着した伊号第8潜水艦。ブンカーに入る前、甲板上に乗組員が整列しドイツ側の出迎えに対し、登舷礼を行い応えている。艦橋の上に立っているのが、艦長の内野大佐である。
1943年3月21日、南太平洋方面の作戦から呉(くれ)に帰着した伊8は、インド洋方面へ進出するため、入念な整備が施された。その頃、軍令部ではドイツとの連絡を実行する第二の潜水艦を検討していた。それにはドイツからの譲渡が決まったUボートU1224(日本名・呂号第501潜水艦、以下・呂501)の、日本への回航搭乗員が50名ばかり同乗することとなる。そのため、艦内に十分な居住スペースが確保できる艦である必要があった。
こうした点を熟慮した結果、旗艦施設も整っていた伊8が選ばれたのだ。艦長の内野大佐(5月1日付で昇進)は、5月3日に上京すると軍令部、さらに海軍省の担当者と入念な打ち合わせを行う。そこで「5月下旬に内地を出発」「8月初旬にブレスト着」「10月初旬に内地着」という予定が決まる。
居住施設の増設、電波探知機の装備などの工事を終えると、洋上給油を担う伊号第10潜水艦(艦長殿塚謹三中佐、以下・伊10)と、特設潜水母艦の日枝丸とともに、6月1日に呉を出港した。10日にシンガポールに寄港し、22日に出港するとマラッカ海峡を北上。翌日にはペナンに寄港。27日に同地を出港した伊8は、いよいよドイツへの長旅についた。
7月1日、南緯04度53分、東経87度20分の地点で、伊10から燃料補給を受ける。通常の洋上給油では、後甲板から前甲板に送油管を渡す。だが後甲板が低い潜水艦では難しいため、前甲板から前甲板に渡す方式を採用。
これをつつがなく行えるように、伊8と伊10は5月19日から21日にかけ、瀬戸内海で燃料補給訓練を重ねていた。さらに6日、南緯22度25分、東経76度15分の地点で、伊8は再び伊10から燃料補給を受ける。その後、2隻は分離。伊8は喜望峰(きぼうほう)を目指し、伊10はインド洋での通商破壊戦に向かった。
喜望峰にはイギリス軍の飛行哨戒基地が置かれていて、その哨戒範囲は800kmと考えられていた。そのためドイツ側から、少なくとも陸地から500kmは離れて航海するように、という指示が届いていた。そこは伊30も翻弄された嵐の海、通称「ローリング・フォーティーズ」と呼ばれる海域だ。伊8がこの暴風圏に突入したのは、7月18日のことであった。
艦橋を洗うほどの大波に襲われ、上甲板の随所に破損が発生、さらに主機械の安全弁が吹き飛ばされた。こうして3日間にわたり、暴風圏との格闘が続いた。
8月20日、大西洋のアゾレス諸島西方でドイツ潜水艦U161と会合。翌日、最新式の電波探知機を装着。そして最後の難関であるスペイン領オルテガル岬沖を抜けると、8月31日、無事にドイツ占領下のブレスト港に入港した。内野艦長と大尉以上の士官は鉄道でパリを経由してベルリンを訪問。カール・デーニッツ海軍総司令官と面会する。余談だが、内野らがベルリンを訪問していた9月8日、イタリアが無条件降伏している。
呂501回航要員と、積み込んできた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊(けんちょう)装置の図面、錫、天然ゴム、雲母などがドイツ側に渡され、代わりにダイムラー・ベンツ高速艇発動機、メトックス受信機、エリコン20㎜機銃、エニグマ暗号機などを積み込んだ。そして後甲板には20㎜4連装対空機銃が装備された。

伊号第8潜水艦は伊7型潜水艦の2番艦として1938年12月に就役している。太平洋戦争開戦時には、第6艦隊第3潜水戦隊の旗艦であった。真珠湾攻撃に際しては、後詰としてオアフ島付近に出撃している。
こうしてすべての準備を終えた10月5日、ブレスト港を後にして帰路につく。帰りは不思議なほど順調な航海が続き、11月10日にローリング・フォーティーズに入るが、往路よりも遥かに平穏であった。しかも追い風だったこともあり、順調にインド洋に入れた。
「11月13日、ペナン沖で伊34が敵潜水艦に攻撃され撃沈している。貴艦もマラッカ海峡通過時には、十分注意されたし」
シンガポールに向かいインド洋を航海していた伊8に、大本営から連絡が入る。内野艦長は迷わず、遠回りになるがスンダ海峡を経てシンガポールに向かう決断をする。こうした内野艦長の冷静な判断が功を奏し、12月5日にシンガポールに到着。
その後、12月21日には呉に到着。こうして伊8は、日本とドイツの往復を完遂するという快挙を成した。じつに204日間、7ヵ月にも及ぶ大航海であった。そしてこれが、日本側が派遣した潜水艦による遣独使節中、完全往復に成功した唯一事例となったのである。

潜水艦艦長は通常、少中佐が配置される。伊8の遣独作戦が決まった時、内野は大佐への進級を目前に控えていた。だが本人の希望もあり、そのまま艦長職を続行。日本海軍初の大佐の潜水艦艦長となった。