江戸時代の立ちんぼ 「夜鷹」というお仕事 第2回~夜鷹と用心棒の妓夫~
江戸の性職業 #008
■夜鷹と用心棒の妓夫(ぎゅう)
江戸の夜鷹の総数を約四千人と述べた『当世武野俗談』から、およそ百年後の、幕末期の状況が、『わすれのこり』(安政元年)に――
今其風俗極めて鄙し、浪銭六孔を以て、雲雨巫山の情けを売る、本所吉田町、また鮫が橋より出て、両国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し。
――とあり、夜鷹の風俗は相変わらず賤しかった。
浪銭六孔は、四文銭六枚のことなので、二十四文。
幕末期になっても、夜鷹の揚代は二十四文なのに変わりはなかった。
夜鷹がもっともたくさん出没したという護持院が原は、当時は、火事の延焼を防ぐための空き地になっていた。現在の千代田区神田錦町のあたりである。
図3では、夜鷹が男の手を取り、
「もしもし、遊びねえ」
と、引っ張っている。
夜鷹は屋外で商売するため、タチの悪い男が揚代を払わずに逃げたり、暴力をふるったりすることが少なくない。
セックスワーカーとしてはリスクが大きかった。
そのため、妓夫(ぎゅう)と呼ばれる男が用心棒として付き添う。妓夫は、牛、牛夫とも書いた。
夜鷹の亭主が妓夫を務めることが多かった。女房が茣蓙の上で男と性行為をしているのを、亭主は物陰から見守っていたことになろう。
戯作『卯地臭意』(天明三年)に、夜鷹と妓夫が描かれている。簡略に紹介しよう。
季節は夏。
夕闇が迫るなか、本所吉田町の裏長屋を出た夜鷹ふたりと妓夫が、両国橋を渡って隅田川を越え、商売の場所である両国広小路に向かう。
夜鷹のお千代とお花は、ともに柿渋色の単衣(ひとえ)を着て、太織の帯を締めていた。
妓夫の又兵衛はお千代の亭主で、やはり単衣を着て、唐傘をかついでいた。
又兵衛は、女房ともうひとりの、つまり夜鷹ふたりの用心棒を務めていることになろう。
ともあれ、当時の夜鷹と妓夫の風俗がわかる。
『甲子夜話』(松浦静山著)に、文政(1818~30)のころの目撃談が記されている。
ある人が夜、隅田川で舟遊びをしていた。
すれ違った舟から、かすれた弱々しい声が聞こえてきた。
「せつなや、せつなや」
「もうすぐ楽になるぜ」
そばの男がなぐさめている。
ややあって、ザブーンという水音がした。
病み呆けてもう客が取れなくなった夜鷹を、妓夫の男が夜の川に放り込んで、厄介払いをしたのだという。
セックスワーカーとして、夜鷹の置かれていた状況は劣悪で過酷だった。
(続く)