江戸時代の立ちんぼ 「夜鷹」というお仕事 第1回~茣蓙をかかえた街娼~
江戸の性職業 #007
■茣蓙をかかえた街娼
夜鷹は、夜道に立って男に声をかける、いわば街娼である。現代の「立ちんぼ」に相当するかもしれない。
しかし、立ちんぼは、声をかける場所こそ街頭だが、性的サービスをするのはラブホテルなど、屋内である。
ところが、江戸の夜鷹は物陰で、地面に敷いた茣蓙(ござ)の上で性行為をした。最下級のセックスワーカーといえよう。
夜鷹の揚代は、蕎麦一杯の値段と同じとも、二十四文とも言われた。
比較は難しいが、たとえば文化十五年(文政元年、1818)の相場で、二十四文は現在のおよそ三百五十円に相当するであろう。
図1に、夜鷹のいでたちが描かれている。
画中に「辻君於利江」とあるが、辻君(つじぎみ)は夜鷹の別称。
『当世武野俗談』(宝暦七年)に、夜鷹について――
鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ヶ所より出て色を売、此徒凡人別四千に及ぶと云。
とあり、宝暦(1751~64)のころ、江戸にはおよそ四千人の夜鷹がいたという。
江戸の夜鷹について述べるとき、必ずと言ってよいほど引用されるのが、国学者・狂歌師の石川雅望の著『都の手ぶり』(文化六年)である。わかりやすく現代語訳すると――
若い女はまれで、たいていは四十から五、六十歳の老婆が多い。老いを隠すため、ひたいに墨を塗って髪の抜けたのをごまかしたり、白髪に黒い油を塗ってごまかしたりしているが、それでも、ところどころ白髪が見えて、見苦しく、きたない。
――と。原文では「みぐるしうきたなげなり」と表現している。
人生五十年と言われた時代にあって、四十~六十の女は老婆と評されてもおかしくない。
吉原から岡場所や宿場に流れ、岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく路上に立つ例が多かった。
そのため、夜鷹は年齢が高く、また性病などの病気持ちが普通だった。
図2で、石川雅望の「みぐるしうきたなげなり」がわかろう。
こんな夜鷹を買う男もいたわけだが、多くは武家屋敷の中間や、下男などの奉公人、日雇い人足だった。
彼らとて吉原や岡場所で遊びたかったであろうが、その薄給では夜鷹がせいぜいだったし、梅毒などの性病に対する無知もあった。
(続く)