蔦重の命を奪った国民病「脚気」
蔦重をめぐる人物とキーワード㊲
12月14日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』最終回「蔦重栄華乃夢噺」では、「書を以て世を耕す」ことを信条とした蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)の最期が描かれた。病に倒れても蔦重は、新たな作品に挑戦し続けるのだった。
■出版界を牽引したべらぼうな人生が幕を閉じる

脚気予防の成分であるオリザニンの抽出に成功した鈴木梅太郎の銅像(静岡県牧之原市)。未知の栄養素・ビタミンを発見したとされるが、当時の国内医学界で鈴木の偉業が認められることはなかった。
松平定信(まつだいらさだのぶ/井上祐貴)らの計略で捕らえられた一橋治済(ひとつばしはるさだ/生田斗真)は、阿波に護送される途中で脱走を図ったが、落雷に遭って落命する。代わりに幕府には治済と瓜二つの斎藤十郎兵衛(生田斗真)が、その後も替え玉として据えられることとなった。
一方、市中に写楽絵を流行らせた蔦重は、ともに仕掛けに参加してきた喜多川歌麿(きたがわうたまろ/染谷将太)ら絵師たちとともに、ますます仕事に邁進した。大田南畝(おおたなんぼ/桐谷健太)や北尾政美(きたおまさよし/高島豪志)、北尾政演(まさのぶ/古川雄大)など、それぞれが活躍を続けていた。
蔦重はその後も国学者・本居宣長(もとおりのりなが/北村一輝)の書籍を売り広めたり、長尺の黄表紙を曲亭馬琴(きょくていばきん/津田健次郎)に依頼したりするなど、既存の江戸の本屋では考えもつかない作品に次々に挑戦し続けていた。
その傍らで危機を迎える吉原にも力を尽くす蔦重だったが、ある日、病に倒れる。診断の結果は脚気(かっけ)。江戸では不治の病とされるものだった。
江戸から離れれば治ることもある、と聞いた妻のてい(橋本愛)は湯治を勧めるが、蔦重は養生より商いを優先させる道を選んだ。
歩くのも不自由になり始めた蔦重は、懇意にしている絵師たちを呼び集め、描いてもらいたい作品を依頼。それは、それぞれの得意とするものを活かし、伸ばす作品でもあった。「死の間際まで書を以て世を耕し続けたい」という蔦重の最期の思いに応えようと、彼らは作品作りに精を出す。
こうして1797(寛政9)年5月6日、蔦重は最期の時を迎えた。これまで関わってきた絵師や本屋、吉原の人々、ていなど大勢の人が見守るなか、蔦重は息を引き取った。最期まで出版人として、生涯をまっとうしたのだった。
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