蔦重の命を奪った国民病「脚気」
蔦重をめぐる人物とキーワード㊲
■豊かさの象徴が招いた悲劇
蔦屋重三郎の命を奪ったのは脚気と伝えられている。
脚気は、江戸時代から明治時代にかけて日本を席巻し、結核と並ぶ「二大国民病」として恐れられた。
脚気の症状は段階的に進行する。初期には全身の倦怠感や手足のしびれ、むくみが現れる。特徴的なのは、すねの部分を指で押すとへこんだまま戻らない症状だ。
進行すると末梢神経が麻痺し、歩行が困難になる。最も恐ろしいのは「心臓脚気」と呼ばれる状態で、心臓が衰弱し、突然の心不全で死に至る「脚気衝心(かっけしょうしん)」という症状を引き起こす。
江戸時代中期、この病は「江戸わずらい」として大流行した。参勤交代で江戸に来た大名や武士が罹患し、地元に戻ると治るという不思議な現象から「箱根山を越えると治る」とまで言われた。原因は精米技術の向上により、庶民の間で白米食が普及したことにあった。ビタミンB1を豊富に含む、胚芽部分を削り取った白米ばかりを食べ続けることで、決定的な栄養不足に陥ったのである。つまり、豊かさの象徴だった白米が皮肉にも人々の命を奪っていたのだ。
明治時代に入ると、脚気は国家的危機へと発展する。軍隊では白米が支給され、日清・日露戦争では前線兵士の約4分の1が罹患し、総傷病者数の半分を占めるまでになった。多くの兵士が戦闘ではなく、脚気によって命を落とした。
この深刻な国民病に立ち向かったのが、海軍医務局長の高木兼寛(たかきかねひろ)だった。高木は食事の改善に着目し、白米から麦飯への切り替えを断行した。結果、海軍では脚気患者が激減し、予防に成功した。
一方、陸軍は食事改善に消極的で、被害は続いた。当時、陸軍軍医総監を務めていたのは森鴎外(もりおうがい)。彼は脚気を感染症だと頑なに主張し、食事によって改善したという海軍の結果を認めようとしなかった。
科学的な原因解明は、国境を越えた研究者たちの努力によって進んだ。1897年、オランダ人医師エイクマンが鶏を使った実験で米糠に予防成分があることを発見。1910年には日本の鈴木梅太郎(すずきうめたろう)が世界で初めて有効成分を抽出し「オリザニン」と命名した。ほぼ同時期にポーランドのフンクも同様の物質を抽出し、生命に不可欠なアミン化合物として「ビタミン」と名付けた。これらの発見により、病気の原因が病原菌だけでなく、特定の栄養素の欠乏によっても起こりうるという革命的な概念が確立されたのだった。
脚気の歴史が示すのは、食生活の偏りがもたらす危険性だ。豊かさの象徴が病を招いたこの歴史は、現代人にもバランスの取れた食事の重要性を問いかけている。
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