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11代将軍・家斉の「最愛の元カレ」が側室を斡旋した!? 美少年との戯れもお盛んだった将軍

炎上とスキャンダルの歴史


■男色も好んだ若き日の家斉

 

 第11代将軍・徳川家斉。精力抜群のオットセイ将軍などといわれ、大河ドラマ『べらぼう』では、あまり登場シーンは多くはないものの、松平定信に「余は政治より子作りのほうが得意」と言い放って独特の存在感を示した「あの人」です。

 

 家斉が正室と16人に及ぶ側室に産ませた子供の数は、少なくとも50人以上。歴史的文脈では子供の多さが健康のバロメーターといえるのですが、家斉も当時としてはだいぶ長命で、彼が天保12年(1841)に享年69歳(満年齢67歳)で没した際には、彼の子供の半分以上が父親より先に亡くなっていました。

 

 徳川家の大奥には2代将軍・秀忠の時代から「大奥法度」が存在し、奥女中たちに「大奥で見聞きしたことをしゃべってはならない」と説く「口外無用」の掟がありました。ゆえに家斉の絢爛豪華な私生活の大半は秘密のヴェールで隠されているのです。

 

 しかし、将軍の執務・生活空間である江戸城の中奥、そして大奥において「納戸組頭」――将軍の身の回り品や着物などを取り仕切る役職のトップを務めた井関親興(ちかおき)の後妻・隆子の日記は、「口外無用」の家斉の秘密に迫る貴重な史料となっているのでした。

 

 家斉の最愛の女性はお美代の方という側室です。彼女は日蓮宗の寺院に生まれた後、家斉の寵臣・中野清茂の養女となって、大奥に入りました。中野清茂はもともと家斉の御小姓で、成人後には「小納戸頭取(こなんどとうどり)」—―江戸城の中奥・大奥で、理髪や毒見など、将軍の身辺のお世話全般を取り仕切る役職のトップを勤めていました。天保年間のはじめごろにリタイアし、髪を下ろした坊さん姿で中野碩翁(石翁)と名乗るようになってからも、江戸城には「顔パス」で出入りし、家斉と親しく付き合っていたそうです。

 

 中野碩翁は、女嫌いで有名でした。そして彼こそ、おそらく家斉の「元カレ」なんですね。井関隆子の日記にも「西の大殿(=家斉)、御盛りの頃、此(この)たはれ好ませ給へりし」とあり、「家斉さまは若くてお盛んだった頃、男色のお戯れをお好みであった」とありますので、家斉の特別な男性といえば、幼馴染の中野だったのではないでしょうか。つまり『べらぼう』に登場している年代の家斉は、女性たちと子作りに励んだだけでなく、同時並行的に美少年とも遊んでいたわけです。

 

 中野碩翁以外にも家斉の男性の恋人は多くいたと思われますが、とりわけ中野を大事にしつづけた理由として、井関隆子は「子供時代から家斉さまの遊び相手だったので、木登りなどをして遊んでいたときに中野だけ墜落し、陰部を怪我してしまったから」という奇妙な噂を披露しているんですね。

 

 それで女とは交われぬ身体になってしまった中野を家斉は憐れみ、ことさらに大事にしているし、中野が妻も持たず、養子しかいない理由もこれというわけです。真偽は不明ですが、これも隆子が夫から聞いた話なのでしょう。ただおそらく、家斉の性のお相手をしすぎて女性にまったく反応しなくなってしまった……というのを「木から落ちた」という表現で誤魔化した夫の言葉をそのまま書いてしまったのではないか……という筆者の疑いは消えません。

 

 いずれにせよ家斉将軍に親しく仕えてきた中野には、将軍の女性の好みなどもすぐにわかるはずで、だからこそ日蓮宗の破戒坊主の娘であるお美代の方を側室としてあてがうことができたのでしょう。それにしても家斉、元カレから彼女を紹介してもらうだなんて、現代では想像しづらい業深いお話ですね。

イラストAC

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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