幕末に「妾として処女がほしい」と要求したハリス 妾として差し出された「お豊」とは何者か?
■「外国人の妾」と蔑まれた「綿羊娘」たち
朝ドラ『ばけばけ』では、「ラシャメン」というワードが飛び出し、外国人の妾となる女性が差別されていた歴史に光が当てられた。ラシャメンは当時「綿羊娘」と書かれ、ひどく蔑まれる存在だった。昭和6年に刊行された『幕末開港綿羊娘情史』には、そんなラシャメンに関する話が多数収録されている。
今回取り上げるのは、その中の1つ、「洋妾お豊と米国大使ハルリス」である。ハルリスとは、初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスのことである。本稿では、参考文献に従って「ハルリス」と記すことにしたい。以下、引用部分はすべて現代かな遣いにして掲載する。
エピソードは「元来ハルリスはわが国情を知るやうになつてから、非常に日本を親愛した。好色云々は別として、その親愛が女をも愛したのは、隠れもなき事実である」というなかなかシビアな出だしである。
記述によると、安政6年(1859)に江戸の元麻布善福寺に公使館がおかれて以降、いつの間にか奥院に21~22歳くらいの女性の存在がちらつくようになったという。色白で体つきも良い、美しい娘だったとか。
謎の美女の名は「お豊」といい、同書によると「ハルリスが心から愛した娘(ガール)」だったという。さて、ハルリスというと、「唐人お吉」といわれた斎藤きちの存在を思い出す人も多いのではないだろうか。ハルリスが体調不良で苦しんでいた際、下田奉行所に看護人の派遣を依頼したところ、奉行所側が「妾」を要求しているのだと判断し、派遣されたといわれる女性だ。
同書では「ハルリスはかの唐人お吉に懲り懲りしたので以来妾を持つ考へもなかったのであったが、もし幸いに、善良の女が得られるならば処女を希望したのであった」と記す。
さて、お豊という女性は下田の農家の生まれだという。幼少期に江戸に出て、神田の叔母のもとで養育された。ハルリスとは安政5年(1858)に神奈川の本覚寺で出会ったという。斡旋したのは神奈川の商人で、お豊が下田生まれという縁もあってのことだったと記されている。ちょうど、幕府とアメリカの間で日米修好通商条約が締結された頃だった。
「お豊が純な処女であったかどうかはわからない」とする一方で、彼女はハルリスの人格や公使としての任務をよく理解し、忠実で従順だったために、ハルリスが愛したのも当然のこと、としている。善福寺ではあくまでただの女中のように振る舞って妾であることを秘密にしようとしていたが、2人の関係については周知の事実だったという。お豊が町を歩くと「ラシャメン」と罵声を浴びせられ、罵られたそうだ。結果、お豊は人目を憚って奥院に引きこもるようになり、さらにはアメリカ領事館となっていた本覚寺でひっそり過ごすようになったのだとか。ハルリスも本覚寺にいることが多かったという。
お豊はハルリスから月に銀三十両を受け取っていたと記載されている。しかし彼女は華美贅沢に流されることなく、慎み深い生活を続けたそうだ。

イメージ/イラストAC