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蘇我氏と物部氏の「丁未の乱」は宗教戦争ではなく、新文化の大革命だった!? 「皇軍VS賊軍」の構図となった内乱の真相


古代にはいくつか大きな内乱があります。そんな中でも国が成立してから最初の大きな内乱は蘇我氏と物部氏の対立でしょうか。


 

■古代の日本で起きた内乱

 

 古代中国大陸の記録によれば、この日本列島内では弥生時代に倭人大乱(わじんたいらん)と呼ばれる集落同士の内乱が続いた時期がありました。その結果、卑弥呼が邪馬台国を率いたとされています。

 

 その後6世紀の初めには継体天皇時代の筑紫磐井(ちくしいわい)の乱などのように反目する勢力同士の争いもありますが、同じ政権内の内輪もめから大きな内乱になった最初の事件は飛鳥時代が始まるころにありました。

 

 西暦587年は十干十二支で丁未(ひのとひつじ)で、この年に起こった内乱を「丁未の乱(ていびのらん)」と呼びます。

 

 事の起こりは欽明天皇の時代、西暦538年に新羅からの圧迫を受けていた百済聖明王(せいめいおう)からの仏教公伝の時、崇仏派の蘇我稲目(そがのいなめ)と排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)が対立したことだったといわれています。しかしながらおそらくその以前から大臣(おおおみ)家の蘇我氏と大連(おおむらじ)家の物部氏はライバル関係にあったわけです。

 

 物部氏は古くから大王家の側近中の側近で、軍事と宗教を担う名家です。物部氏の「物」とは人知の及ばない神の領域のことで、大和古来の神々を祀る一族でもある権益を守るために、外国から入ってきた仏教を排斥しようとするのは当然でしょう。

 

 古来勝つか負けるかで生存にもかかわる軍事と神威は一体のものです。今でも「勝も負けるも時の運」とか「勝利の女神がほほ笑んだ」などといいますね。だから軍事に責任を持つ物部氏は神祀りを司り、直接受け持つ石上神宮(いそのかみじんぐう)は七支刀(しちしとう)を奉戴した武器庫でもあったのです。その重要な宗教掌握権益を失うわけにはいきません。

物部氏が祀った石上神宮
撮影:柏木宏之

 蘇我氏はわりと新しく勃興した豪族で、外交と財政を取り仕切っていました。愚考しますに蘇我氏は百済王族を祖先に持つ渡来系で、葛城氏(かつらぎし)の家督を受け継ぎ大和王朝内で財政と外交を取り仕切って勃興した豪族だと私は考えています。蘇我氏は仏教を国教に出来れば物部氏の宗教権益を取り上げることができ、朝廷内での権力を一手にすることも可能なわけで、ライバルの物部氏を失墜させる大チャンスです。

 

 ここで気付くのはこの崇仏派と排仏派とに分け合られる両家の反目理由が、純粋な信教上のものではないことです。そしてくすぶった関係は息子たちの代に引き継がれ、蘇我馬子と物部守屋の代になって勃発したのが「丁未の乱」だったのです。

 

 ただこの状況をよく観てみると、単なる権力争いだけかというとそうとも言えないのも事実です。すなわち仏教という新しい宗教文化を取り入れるという事は、釈迦の教えや哲学を知るというだけでなく、そこに付随する重要な新文化の塊のような新技術や新知識を取り入れて、国を近代化するという事なのです。つまりこれが最も重要な目的で、仏教導入に成功すれば蘇我氏にとって物部氏を失墜させて、そのうえ近代化できるという、一石二鳥の話だったに違いありません。

 

 仏教を取り入れるためには何が必要だったでしょう? もちろん識字率を高めて経典を理解せねばなりません。その学習の場として巨大な寺が必要です。寺は見たことも無いエキゾチックな瓦葺で、その重量を支える柱には礎石が必要という新建築工法です。仏画も書かねばなりませんし荘厳具(しょうごんぐ)と呼ばれる天蓋や幡、堂内の装飾塗装、そして仏像の製作、そのデザイン知識、さらに寺院堂宇の伽藍配置、線香や蝋燭、紙や筆、墨、僧衣や諸道具の製作などなど、それらはすべて専門職の育成から始まります。つまりとんでもなく大きな新文明を取り入れるという事だったのです。

 

 さて、馬子と守屋の時代に両者が決定的な対立の原因となったのは、即位してすぐに崩御してしまった聖徳太子の父親の用明天皇の後継ぎ問題でした。

 

 馬子にすれば仏教を受け入れようとする蘇我系の用明天皇のあとを、物部の擁立する排仏思想の皇子に委ねることはできません。蘇我系の皇子や皇女がワンサカといたこの時代、蘇我氏は天皇の外戚として権力をふるっていましたので、ライバルの物部守屋は起死回生の権力奪還を画策します。まあ、当然でしょうね。

 

 その時蘇我系の血筋にもかかわらず穴穂部皇子(あなほべのみこ)が即位できるなら物部氏の後ろ盾を受け入れても良いそぶりを見せたのです。これを警戒した馬子は穴穂部皇子を抹殺します。担ぐ皇子を奪われた物部守屋はついに蘇我との武力対決を決意したのです。

 

 これが丁未の乱の本質ですから、21世紀の今日でもこの内乱を「崇仏派と排仏派の合戦」だという印象を持つ方もいらっしゃるようですので、実相を見て欲しいと思うのです。そのうえこの争いは最初の皇軍対賊軍的な構図であることも面白いと思います。

大阪市内上町台地に聖徳太子によって建立された四天王寺は、まさに丁未の乱の戦勝記念でもある。
これより大和の国には仏と神が共存することになる。
撮影:柏木宏之

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から2023年まで放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在はフリーアナウンサーと同時に武庫川学院文学部非常勤講師を務め、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。2010年、奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。歴史物語を執筆中。

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