「最後の有人戦闘機」と称され日本の空を守った「栄光」【ロッキードF-104スターファイター】
超音速時代の到来~第2世代ジェット戦闘機の登場と発展~【第10回】
第2次世界大戦末期から実用化が推進された第1世代ジェット戦闘機は、朝鮮戦争という実戦を経験して完成の域に達した。そして研究はさらに進められ、亜音速で飛行する第1世代ジェット戦闘機を凌駕する超音速飛行が可能な機体が1950年代末に登場。第2世代ジェット戦闘機と称されて、超音速時代の幕が切って落とされた。前シリーズに続いて本シリーズでは、初期の超音速ジェット戦闘機(第2世代ジェット戦闘機)について俯瞰してゆく。

空自衛隊のF-104J。航空自衛隊は、開発国であるアメリカ空軍よりも本機の整備と運用に習熟していたともいわれる。
当時のアメリカ航空機設計界の鬼才のひとりであるクラレンス・レオナルド“ケリー”ジョンソンは、朝鮮戦争で実戦を経験したパイロットたちの経験談に基づいて、軽量で優れた上昇力と機動力を備えた機体が求められていると判断した。
この時点では、軽量で大出力エンジンを備える格闘戦性能に優れた機体というイメージだったが、アメリカ空軍は、軽量で優れた上昇力と高速が発揮できる迎撃戦闘機を求めた。というのも、当時は北米大陸に飛来するソ連の核爆弾搭載戦略爆撃機の脅威への対処がクローズアップされており、同時期に開発が進めらていた100番台の戦闘機、いわゆるセンチュリー・シリーズのうち、長距離侵攻戦闘機として開発されたマクドネルF-101ヴードゥーも迎撃戦闘機化され、コンヴェアF-102デルタダガーは最初から迎撃戦闘機として開発されている。
そこでロッキード社は、ジョンソンを中心としてF-104を開発した。軽量な機体に薄く小さな台形の主翼、T字尾翼という特徴的なデザインを備えた本機は、優れた上昇性能とマッハ2の高速を発揮。だが格闘戦性能に劣り、小型なので燃料搭載量が限られ航続距離が短く、兵装搭載量も少なかった。
そのためアメリカ空軍では、F-101やF-102に比べてF-104は短期間しか運用されなかったが、航空自衛隊にとっては、ニーズにかなり適した器材といえた。国籍不明機の接近を受けてスクランブル発進し、急激に高度を上げつつ現場に急行する。しかも飛行空域が国土内なので、航続距離が短くてもさほど心配がない。
このように、F-104は小さな国土の防空には向いていたのである。ゆえに「栄光」の愛称を与えられたF-104Jは、三菱重工でライセンス生産までおこなわれた。
また、F-104は低空を超音速で駆け抜けられる機体なので、東西冷戦真っ最中のNATO正面では、アメリカが管理・提供する戦術核爆弾を搭載して低空侵攻核攻撃任務に従事するため、西ドイツ、オランダ、ベルギー、カナダの各国も本機を採用している。
しかしF-104は、機体本来の問題だけでなく、採用した各国ごとの操縦技術や整備技術の優劣といった人的な問題に、機体の運用方針の問題が絡み合って、事故の多い機体と評価される傾向が見られる。
たとえば航空自衛隊では、迎撃戦闘機として運用したのでスクランブル発進して急上昇しつつ、国籍不明機に向けて高空域を急行するという中高度以上での運用であり、トラブルを起こした場合はそれをリカバーしたり、パイロットが脱出する余裕がまったくないわけではない。しかし低空侵攻核攻撃任務の訓練では、低高度を飛行するのでトラブルのリカバーや脱出する時間的余裕はかなり少ない。こういったことも、F-104の悪評の一端となっているようだ。
とはいえ、F-104はマッハ2級の高速機として、西側各国で運用されたのだった。