大正の美魔女インフルエンサー・林きむ子の数奇な人生 世間に大バッシングを受けた育児放棄と再婚騒動
炎上とスキャンダルの歴史
■大正の世を賑わせたスキャンダル
芸者ではなく素人の女性――それもリッチな令嬢、マダムたちに注目が集まりはじめた明治末~大正初期の日本では、数多くの「美人」たちが新聞・雑誌の紙面をかざりました。彼女たちこそ、現在の“インフルエンサー”の先駆者です。
その中でも、17歳で大富豪にして政治家の夫・日向光武と結婚した日向きむ子(のちの舞踊家・林きむ子)には日本中から憧れの眼差しが集まりました。しかし日向が贈収賄事件に巻き込まれて収監され、解放後に発狂したことで、きむ子の人生は暗転します。
しかも日向が心不全で亡くなった大正7年(1918年)、夫の一周忌の命日も迎えていなかったにもかかわらず、きむ子は9歳年下の薬剤師にして詩人志望の林柳波と電撃再婚したのでした。
詳細はボカされているようですが、夫の死の前後の時期、彼女は上野近くにハイカラな店構えの化粧品店「瓢々堂」を開店させていました。薬剤師の免許を持つ林柳波の全面協力のもと、「眼のまわりや、頬の肉が落ちて、何となく寂しいお顔になったのを」回復させ、「血色を麗しくして、若々しいお顔にする」効果があると謳った「オロラ豊頬液」を製造、販売開始したのです。
彼女は今でいう“美魔女”でした。いつまでも若々しく、美しいきむ子が看板モデルとなった「オロラ」は爆発的にヒットし、毎月500円――現在の数百万円の売上を誇っており、きむ子としては満を持して林とは再婚したつもりでした。
しかし世間は、亡夫との間に6人の子どもがいる36歳のきむ子の再婚に驚きました。きむ子は「私は断じて今をはじめての恋と呼ぼう」と、再婚の喜びを表しましたが、非難は当時では相当な「熟女」の年齢に達しているはずのきむ子が、いまだに「女」として生きている点に集中したのです。再婚相手が、きむ子より9歳年下、つまり当時25歳の林だったことも災いしました。
元ファンを名乗るアンチたちは、様々な新聞・雑誌に「あれ程尊敬し(略)日向きむ子夫人が再婚したと聞いた時には『マア情けない』という言葉」が出たとか、「子どもが多いから一人で行くべき」などと好き勝手言ってのける始末。
数少ない擁護者には、日本の元祖フェミニストの一人、平塚らいてうが含まれていました。らいてうは「きん子さん(原文ママ)に多数のお子さんがあるというようなことも今度の結婚が母としての任務の妨げたということが証明されない限り、反対の理由にはなりません」と結論しましたが……実際のきむ子は「母の任務」の多くを投げ出していたのです。
亡父との間に生まれた6人の子どものうち、年長の4人は「育児放棄」。「下の二人だけは連れて行くから(3人の)上の子は頼む」と長女・知惠(ちゑ)に告げていたそうですよ。
知惠は当時、仏英和女学校に在籍中でした、美容液で稼いでいたにもかかわらず、きむ子は長女の学費の支払いすら止めてしまったのでした。知恵は突然、自活の道を探らざるをえなくなった上、きむ子が果たすべき「母の任務」すら押し付けられていたのです!
これがきむ子自身の意思か、林の希望だったかは不明ですが、「はじめての恋」に彼女がノボせあがっている印象は拭えません。
母の再婚で置いていかれた子どもたち4人にとって、きむ子は「母親」というより、年上の放ってはおけない「友人」のような存在になっていったようです。
しかし、きむ子に悪意などはなかったようですね。彼女は良くも悪くも浮世離れし、過去に囚われないのです。プロの詩人を目指す薬剤師・林柳波と結婚したことで、きむ子は芸術家としての自我にめざめ、まだ売れていた「オロラ」美容液の販売から手を引きます。
そして日本舞踏家を目指し、西川流の稽古を受け、その後は日本の伝統音楽ではなく、西洋音楽や、当時の日本で流行った「童謡」に振り付けした創作舞踊・林流の創始者として人気を博したのでした。
家事などできないし、したくもないというきむ子に代わって、主に家政を担当していたのが夫とお手伝いの女性でしたが、彼らに頼りっきりで平気のきむ子を、林は内心では嫌だったそうです。
それでも、きむ子が舞踊家として輝いている時期はなんとかなっていました。しかし戦争が始まり、舞踊どころではなくなると、夫婦仲は悪化していきます。
長野県小布施での疎開生活中に、林は別の女性と懇意になって子まで設け、きむ子とは別居することになりました。戦後のきむ子は日本舞踊をベースとした創作舞踊の第一人者として活動を続けましたが、なぜか決して林と離婚しなかったそうです。自分の美貌と才能のもとに彼が戻って来てくれることを信じていたのでしょうか……。

イメージ/イラストAC