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日本人ならば、誰もがもつ「名字」は何時代に名乗られはじめたのか⁉ ─名字の歴史─

名字と家紋の日本史#01

 

埼玉県行田市の稲荷山古墳

 

■大和王権とともに拡大していった姓氏

 

 日本という国土で受け継がれた「名字」の歴史は古墳時代にまでさかのぼる。

 

 原初的な姓氏は神話に登場する神々の名に見える「ヒコ」や「ヒメ」など名称の語尾に付く尊称である。やがて天皇家が地方の豪族を従え日本列島の主権を得ると、地方の国々を支配する氏族の首長に姓かばねを与えて身分や地位を保障した。

 

 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には、オホヒコからオワケノオミに至る8代に及ぶ系譜が刻まれ、「ヒコ」「スクネ」「オミ」「ワケ」など古代の姓の実用例を確認できる。『日本書紀』によると第13代・成務天皇の5年に、国土を国割りして国の長に国造(くにのみやつこ)、県の長に稲置(いなぎ)を与えた。この制度は第19代・允恭(いんぎょう)天皇の時代に乱れたため、すべての諸臣を甘樫丘(あまがしのおか)に集め、盟神探湯(くがたち)という呪術的な裁判によって、姓氏の秩序を正している。この頃の姓には公(君)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがあり、渡来した百く だ ら 済王の一族には王こにきしが下賜された。

 

 第40代・天武天皇の代には「八色の姓」が制定され、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、導師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)が定められた。これらは地位に従って下賜されたが、やがてこの制度も形骸化し、多くは臣下の最上位である朝臣姓を自称するようになった。

 

 一方で、父系の血縁を持つ一族が共通して用いるものは氏という。氏の多くは居住する地名を負った。古くは出雲も氏、紀氏、吉備氏など国造の支配地で呼ばれたものがあり、朝廷に近い土地から興った葛城 氏、蘇我氏などは、国家の黎明期に活躍した一族である。

 

 また氏には朝廷内の部民という職掌から起こったものもある。物部氏や大伴氏などは品部に関わる氏である。これらの中には現代でも名字として受け継がれているものもある。

 

 弘仁6年(815)には嵯峨天皇の命により京師、五畿内を中心に住む1182氏(現存本1177氏)を出自別に分類した『新撰姓氏録』が編纂された。これは家柄の数を確認し、氏族の姓氏が正しく名乗られているかを公にする記録となった。

 

監修・文/高澤 等

歴史人2025年11月号『名字と家紋の日本史』より

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