世界初の実用量産型超音速戦闘機【ノースアメリカンF-100スーパーセイバー】
超音速時代の到来~第2世代ジェット戦闘機の登場と発展~【第2回】
第2次世界大戦末期から実用化が推進された第1世代ジェット戦闘機は、朝鮮戦争という実戦を経験して完成の域に達した。そして研究はさらに進められ、亜音速で飛行する第1世代ジェット戦闘機を凌駕する超音速飛行が可能な機体が1950年代末に登場。第2世代ジェット戦闘機と称されて、超音速時代の幕が切って落とされた。前シリーズに続いて本シリーズでは、初期の超音速ジェット戦闘機(第2世代ジェット戦闘機)について俯瞰してゆく。

ベトナム戦争で敵陣地に向けて2.75インチ対地ロケット弾を連射するF-100スーパーセイバー。
亜音速ジェット戦闘機のF-86セイバーの優秀さに満足していたアメリカ空軍は、同機を下敷きにした超音速機を求めた。しかしF-86を発展させても限界があったことから、ノースアメリカン社は新設計のNA-180を提示。これが1951年に、世界で初めて水平飛行で超音速が出せる実用量産型戦闘機F-100として採用された。
アメリカ空軍は、Fの接頭記号で始まる戦闘機初の100番台の機体となった本機以降、100番台の番号を持つ戦闘機をセンチュリー・シリーズと称したが、その嚆矢となったF-100には、傑作機セイバーを超えた機体という意味で、スーパーセイバーの愛称が付けられた。
また、「100(Hundred)」のスペルから「ハン(Hun)」の愛称でも呼ばれたが、これはアッティラ王に率いられた勇猛果敢なフン族(英語でのスペルはHunsとなる)にもひっかけたものといわれることもある。
F-100の実戦部隊での運用は1953年後半から始まったが、運用中にさまざまな問題が生じた。
着陸進入中に突然、機首上げを起こして機首を45度以上も上に向けたまま、その上向きの機首を左右に振りながら滑走路上を這うように制御不能の飛行をしたうえ、最後は滑走路に激突して爆発炎上する異常飛行は“セイバー・ダンス”と呼ばれて恐れられた。また、飛行中に機体の姿勢によっては急にイナーシャカップリングを起こし、それを制御しようとしているうちに空中分解してしまうなどの事故が多発したのだ。
琉球政府時代の沖縄でも、F-100は小学校に墜落して大惨事を引き起こしている。しかし、アメリカ空軍は当時としては高性能のF-100を評価していたため、巨額を投じて何度かの修正や改修を実施。最終的には実用に耐える機体とすることができた。
その後、ベトナム戦争が勃発するとF-100も投入された。当初は制空戦闘機としての活躍が期待されたが振るわず、やや旧式化してきたので北ベトナム空域への侵入攻撃(北爆)からは外されて、南ベトナム内での近接航空支援(南爆)に用いられた。
ベトナム戦争におけるF-100は相応の活躍を示したものの、改修が施されているとはいってもやはり事故を起こしており、それで失われた機体も少なくなかった。
なお、F-100の総生産機数は2294機。アメリカ空軍からの退役は1979年であった。