中国人の間で流行する「潤(ルン)」とはいったい何か? 背景には生きづらさと“弱肉強食”の歴史があった
歴史でひもとく国際情勢
コロナ禍以降、「潤(ルン)」という言葉が中国で流行り始めました。英語の”Run”と中国語の「潤」が同じ音で、「よりよい暮らしを求めて中国から逃げる」という意味のスラングで、海外移住のことを指します。米国やシンガポール、豪州などが人気ですが、日本に来る人も増えています。
コロナ禍で中国政府は厳しい「ゼロコロナ政策」を採り、無茶な隔離や移動の禁止を断行しました。人々は、自分たちの暮らしが政府の方針次第で簡単に抑圧されるのだということを、身をもって経験しました。特に富裕層は、政府が気分次第で自分の資産を巻き上げてしまうことを恐れ、資産を国外に逃し始めました。さらに一部の人は、よりよい居住や教育、言論の環境を求めて、海外への永住を進めました。
「潤」の背景には、中国の「生きづらさ」があります。中国は受験競争に始まり、就職競争、出世競争と常に競うことを強いられ、騙したり裏切ったりしてでもライバルを蹴落とさないと自分が生き残っていけない、過酷な競争社会です。
中国がこのような「生きづらい」のは今に始まったわけではなく、歴史的な理由があります。
■南へ移動する漢人
中華文明は「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる黄河中下流地域に発展しました。秦(しん)が中原の統一王朝を作った頃は、さらに北部、現在の北京付近には匈奴(きょうど)などの遊牧民族、「江南(こうなん)」と言われる長江以南にはモン族やチワン族、タイ族、ペー族などの原住民が割拠していました。
10世紀になると宋王朝が成立し、技術の発達でフロンティアである江南地域の開発が進んだことに加え、遊牧民族国家の遼(りょう)や金(きん)の圧迫もあり、人々の南への移住が進みました。南へ移住した漢人は原住民の土地を奪ったり追いやったりして、農業用地や居住地域を確保していきました。追いやられた原住民たちは集団で南下していき、その末裔たちが現在のミャンマーやタイ、ラオスの原型となる国を作っていくことになります。
歴史的に江南は政治の中心になることはありませんでしたが、経済の中心として発展していきます。南への漢人の移住と開発は、清朝の時代まで続きます。新たなフロンティアは江南から、広東や広西などの華南地域へと広がり、雲南(うんなん)や台湾といった当時の「辺境」と言われた地域にまでも漢人が入植して、新たな農地を開発していきました。
漢人は持ち前の勤勉さで土地や商売を広げていくのですが、中には先住民の土地をかなり悪辣な方法で奪っていく連中もいました。例えばイカサマの賭け事で借金漬けにし、その返済の担保として土地を奪い取るといったやり方などです。
土地を奪われ没落した先住民は、漢人の地主の下で小作人として働く以外に道はなく、劣悪な環境で搾取されることになるわけです。
このような競合関係は漢人と先住民だけではなく、漢人同士でも行われました。競争に敗れた者は別の場所に移動し、その土地にいる先住民や漢人と再び競争をして、彼らが持っている富を奪い取ろうとします。そこでまた勝者と敗者が生じ、敗者が別のところに移動し、そこまでまた競争が始まる…。そういった競争が常態化していたのが江南や華南でした。
逆に言うと、そのような激しい競争が経済発展のエンジンとなり、歴代の中国王朝を支えていたのです。
後編/過競争社会の“中国から脱出”するのは、むしろ「勝ち組」これも歴史的な中国人の移住行動の一環なのか

写真/AC