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織田信長が大金を払ってでも欲しかった「櫓」 大坂城に現存する千貫櫓との関係は?


織田信長が大金を払ってても手に入れたかったという伝説をもつ、大坂城現存最古の2重櫓・千貫櫓について紹介する。


■色々と残念なことになってしまった大坂城

 

 かの織田信長が一番苦戦を強いられた相手とは? 桶狭間の戦いで討ち果たした今川義元? 本能寺で命を取られた家臣の明智光秀? いやいや、おそらくは大坂本願寺に拠る本願寺の信者たちだったのではないだろうか。

 

 大坂本願寺は、現在の大坂城本丸にあった。寺といっても当時の寺院の中には、主が万が一の時に、城の代わりに使用できるよう堀や石垣や土塁などで守りを固めたものもあった。大坂本願寺もこうした要塞化した寺の一つだったとされている。

 

 本願寺との戦いの中で信長は、「あの櫓を落とした者には千貫を与える」といったとか、「あの櫓は千貫の価値がある」といったとか逸話が残る。その櫓が現存する千貫櫓だという。

 

 確かに千貫櫓という櫓は存在する。大坂城の正面入口にあたる大手門の左側に位置する2重2階、高さ13.2メートルの巨大な櫓のことだ。この大手門に行くにはその手前の土橋を渡らなくてはならない。城の堀にかかる橋には、木製の橋など様々な種類があるが、土橋とは土で造られた橋のこと。木の橋は万が一の時には、焼き払う、解体するなどして簡単に撤去できるが、土の橋はそうはいかない。それでは敵に侵入されてしまうと思うだろう。

 

 いやいや、そうではない。大坂城大手門前の土橋は、広いのに大手門の門扉はとても小さい。つまり、大坂城内に入ろうとする軍勢はこの橋の上で渋滞してしまうように設計されている。ここに、攻撃を加えれば、敵は逃げ場がなく右往左往することになるだろう。その攻撃を加える場所として造られたのが千貫櫓なのだ。

 

 その証拠に、城の外側つまり堀に面した南側と東側には鉄砲狭間や格子窓、石落としなどが設けられており、鉄砲や弓矢などで相手を撃つことができるようになっている。

 

 ただし、現存する千貫櫓は、元和6年(1620)に徳川氏よって建てられたもの。現存する大坂城の建物としては、少し北側に建つ乾櫓とともに最も古い。茶人や造園家としても名高い小堀遠州が手掛けたとされる。

 

 つまり、織田信長が現存する千貫櫓を見てあれやこれやいったわけではないのだ。平戸藩の四代目藩主松浦鎮信が元禄9年(1696)に著した『武功雑記』には、この櫓から放たれる矢に悩まされ続けた織田方軍勢の中で、「あの櫓は千貫を払ってでも奪い取りたい櫓」といったとある。おそらく今の千貫櫓が建っている場所あたりに、本願寺が設けた櫓があったのだろう。そして、この逸話から新しく造られた櫓にも千貫櫓という名をつけたのかも知れない。

 

 千貫櫓は、現在国の重要文化財に指定されている。天守閣のように常時見学できるわけではないが、特別公開の時には内部をじっくりと見て廻れる。内部の鉄砲狭間の近くには火縄銃がおいてある。この火縄銃で、ここから城に攻め入ろうとする敵を狙う鉄砲隊になった気分を味わうことができる。

 

 令和7年度は11月30日までの土曜・日曜・祝日と8月13日から8月15日まで公開中だ。大阪万博のついでに足を延ばしてみるのもいいかもしれない。

大手口から大坂城に入ろうとすると左手に見える千貫櫓。24メートルの石垣の上に鎮座し、王者の風格を備えた櫓である。
撮影:加唐亜紀

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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